2020/11/07

2020年11月7日3分メッセージ



嵐から平安の人生へ  志村キリスト教会 生田ハエノ

 青春時代、元気で仕事に勉強にまっしぐらでしたから、信仰とか神に頼るとかは心も体もひ弱い人がすることで、私は違うと思い込んでいました。
 聖書を最初に手にとったのは、岡山県津山市の高等看護学院の学生時代でした。正看護師の資格を取るために、昼は看護学院で学び、夜は津山基督教図書館高校で学びました。高校の授業の一つに聖書の時間がありました。友逹に借りた聖書を机に立てて眠り、授業が終わって寮に帰ったら、国家試験に向けて一生懸命合格を目指して勉強しました。
 クリスチャンになってから思うのは、聖書を教えておられたのは校長の森本慶三先生でした。どの学科よりも大切な時間に寝ている私を憐れんで祈って下さり、また職員室の多くの先生方、皆さんで私の救いを神様に祈っていただいたのだと思っています。
 卒業して九州の大学病院に就職しました。看護師として楽しく働き、夜勤が終わった後、寝ないで遊びに行ったり、そんな無茶苦茶な生活がたたって、日本脳炎の疑いで隔離病棟に入院させられました。40度近い高熱が4日間もつづき、死ぬか脳障害になって生きるか、絶望的な中にいた時、ベットの脇に白い衣の人が立って「安かれ」と声をかけられました。私は1年前に亡くなった父だと思って「父ちゃん」とよびました。それから不思議に熱も下がり回復に向かいました。
 その後、結婚のため上京して、子育てが始まり、私の心は大風が吹き荒れていました。そんな時、トラクトを持って訪ねて来られた人(今は牧師先生になられた大越喬子先生)に誘われて教会に導かれました。祈りの時、涙はボロボロ、鼻水は滝のようにぐしゃぐしゃ、終わってから救われたと言われ、受け入れました。3ヶ月後、私は31才で洗礼を受けました。自我の壁が崩れたけれど、私という人間が作り上げられるまで年月がかかりました。今もその途上です。
 そして入院の頃、ひしがれている私の所に来てくださった「白い衣の人」はイエス・キリスト様だとわかりました。私が初めて聖書の御言葉を覚えたのは、マタイ10章26節です。「おおわれているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」最初、心の隅まで見通されて私は怖いと思いましたが、本当の神様を感じました。そして、信仰は私の人生にマイナスになったことは一度もありません。今は平安の中で、魂の休息地の中で生きています。

2020/11/02

2020年11月8日の聖書日課

  

(写真:キチジョウソウ)

マタイ3:7-12
 3:7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
 3:8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
 3:9 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
 3:10 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
 3:11 わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
 3:12 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/11/01

2020年11月1日3分メッセージ



 イザヤ44章6節をお読みします。
主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主はこう言われる、「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない」。

 聖書は、信じるべき神はただひとりであると語っています。また、ただひとりの神のみを信じることを命じ、他の神々を信じることを禁じています(出エジプト20章3節)。
 イザヤ44章9節以降では、神々をかたどって作られた像を「偶像」と言って論じます。結局のところ、偶像とは神そのものではなく、人間の手によって作られたものにすぎない、と訴えています。
 この教えは、キリスト教が礼拝の対象として像や絵画等を用いないことの理由となります。キリスト教の文化でも優れた美術作品が数多く作られてきました。しかし、それは言わば視覚によって伝えられる神に関するメッセージです。
 さらに、聖書の神は偶像の神とは異なって、私たち人間に関わりを持とうとされるお方です。聖書の神はイスラエル、すなわち神を信じる神の民をあがない、救われるお方であり、人間の「初め」から「終り」に至るまで、全人類の歴史を通して関わりを持とうとされるお方です(イザヤ44章6節)。
 そして、神は私たちに御言葉をかけられ、私たちの人生の指針を示す教えを与えられるお方です(イザヤ44章7節)。神は人間にはっきりと悟らせるため、私たちの人生に奇跡を行われます。そのような体験をした者は神を証言する証人となる、と言われています(イザヤ44章8節)。ぜひ聖書のメッセージに耳を傾けてください。「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるであろう。」(マタイ7章8節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たち、人間の力には限界があります。私たち自身を救う力すらありません。私たちの初めと終りを知っておられる神様。私たちに寄り添ってくださり、御言葉の通り私たちをあがない、救いの御業を見させてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年11月1日の聖書日課

 

(写真:ダリア)

イザヤ44:6-17

 44:6 主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、
万軍の主はこう言われる、
「わたしは初めであり、わたしは終りである。
わたしのほかに神はない。
 44:7 だれかわたしに等しい者があるか。
その者はそれを示し、またそれを告げ、
わが前に言いつらねよ。
だれが、昔から、きたるべき事を聞かせたか。
その者はやがて成るべき事をわれわれに告げよ。
 44:8 恐れてはならない、またおののいてはならない。
わたしはこの事を昔から、
あなたがたに聞かせなかったか、
また告げなかったか。
あなたがたはわが証人である。
わたしのほかに神があるか。
わたしのほかに岩はない。
わたしはそのあることを知らない」。
 44:9 偶像を造る者は皆むなしく、彼らの喜ぶところのものは、なんの役にも立たない。その信者は見ることもなく、また知ることもない。ゆえに彼らは恥を受ける。
 44:10 だれが神を造り、またなんの役にも立たない偶像を鋳たか。
 44:11 見よ、その仲間は皆恥を受ける。その細工人らは人間にすぎない。彼らが皆集まって立つとき、恐れて共に恥じる。
 44:12 鉄の細工人はこれを造るのに炭の火をもって細工し、鎚をもってこれを造り、強い腕をもってこれを鍛える。彼が飢えれば力は衰え、水を飲まなければ疲れはてる。
 44:13 木の細工人は線を引き、鉛筆でえがき、かんなで削り、コンパスでえがき、それを人の美しい姿にしたがって人の形に造り、家の中に安置する。
 44:14 彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。
 44:15 こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。
 44:16 その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、「ああ、暖まった、熱くなった」と。
 44:17 そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/10/25

2020年10月25日3分メッセージ



 黙示録21章3節、4節をお読みします。
神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。

 新約聖書の最後の書、黙示録は私たちに希望を示す書です。神の救いがいつ行われるかは明らかにされていませんが、救いがどのようにして行われるかを明らかにしています。
 「神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる」という言葉に、私たちは深く慰められます。このことが実現するために、聖書の神は二つのことを行われます。一つ目は、新しいものがやって来ることであり、二つ目は、古いものが過ぎ去ることです(黙示録21章1節)。
 新しいものは「着飾った花嫁のように…天から下って来る」と言われてます(黙示録21章2節)。このことは、以前の3分メッセージで引用した聖句、「永遠の家を上に着る」(コリント第二5章1,2節)という言葉と一緒です。神は私たちの涙の元となる古い人生を、上から喜ばしい、新しい人生で覆われるのです。
 神は私たちの古い傷を包んで、癒してくださいます。そのために私たちに聖書によって温かいメッセージを届けられ、私たちの近くに来られています。ぜひ聖書の神をあなたの心に迎え入れてください(黙示録3章20節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは過去の痛ましい出来事を思い返し、涙に暮れることがあります。その時、神様は私たちの涙をぬぐいとって下さると、御言葉によって約束されました。私たちも過去の自分に留まり続けるのではなく、新しい人生に向かって歩き出すことができますように。私たちの心の傷を癒してください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/10/19

2020年10月25日の聖書日課

(写真:シュウカイドウ)

黙示録21:1-4
 21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
 21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
 21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
 21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2020/10/18

2020年10月18日3分メッセージ



 詩篇34篇18節、19節をお読みします。
主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。

 聖書の神は、私たち人間に正しい生き方を教える「主」として私たちを導かれます。しかし、正しい生き方をすれば悩み事が消えてなくなる訳ではありません。むしろ、正しい生き方をしたことが原因となって、災いが降ってくるような体験をすることがあります。
 聖書は、まさにそのような悩みを抱えている人にこう言って励ましています。「正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。」(詩篇34篇19節)
 私たちは、周りの人々との間に角が立つことを恐れて、あえてなすべき正しい事を行わないことがあるかもしれません。あるいは、そのことで自分の心が傷ついてしまうことを恐れているのかもしれません。
 確かに、聖書の教える正しい生き方に従って生きる時、私たちの心が砕かれてしまうこともあるでしょう。しかし、それでも聖書は、「悪を離れて善を行いなさい」と私たちに勧めています(詩篇34篇14節)。なぜなら、「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる」のだからです(詩篇34篇18節)。
 聖書の神は、私たちの傷ついた心を癒し、私たちの最も大事なところを守ってくださるお方です(詩篇34篇20節)。私たちの命を守り、幸いで満たしてくださる神に従ってまいりましょう(詩篇34篇22節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの心は深く傷ついています。しかし、心の砕けた者の近くに来てくださって、癒してくださる神様に身も心もお任せします。どうぞ私たちをあらゆる災いから助け出してくださり、神様が示される正しい道を歩むことができますよう、私たちをお導きください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)