2025/05/25

2025年5月25日「主の祭壇を修繕する」

列王紀上18:30-39
 18:30 その時エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。
 18:31 そしてエリヤは昔、主の言葉がヤコブに臨んで、「イスラエルをあなたの名とせよ」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取り、
 18:32 その石で主の名によって祭壇を築き、祭壇の周囲に種二セヤをいれるほどの大きさの、みぞを作った。
 18:33 また、たきぎを並べ、牛を切り裂いてたきぎの上に載せて言った、「四つのかめに水を満たし、それを燔祭とたきぎの上に注げ」。
 18:34 また言った、「それを二度せよ」。二度それをすると、また言った、「三度それをせよ」。三度それをした。
 18:35 水は祭壇の周囲に流れた。またみぞにも水を満たした。
 18:36 夕の供え物をささげる時になって、預言者エリヤは近寄って言った、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。
 18:37 主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
 18:38 そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。
 18:39 民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。

 預言者エリヤは、イスラエルの王家に従う異教の預言者らと対決しました(列王紀上18:24)。イスラエルの民は、父祖の神に従うとともに異教の神々にも従う、どっちつかずの信仰でした(列王紀上18:21)。エリヤはイスラエルの民の信仰にも対決したのでした。

 定例の礼拝の時に至り、異教の預言者の祈りに未だ答えはありませんでした(列王紀上18:29)。エリヤは民を聖書の神、主の祭壇に招き、民は招きに応じました(:30)。ここから、エリヤは民の手を用いて、崩れた主の祭壇を修繕しました(:31-35)。エリヤは、民の間に失われていた真の礼拝の心を取り戻させました。

 繕われた祭壇はイスラエルの民の手による、イスラエルの名と心が込められたものでした。そこに人手によらず、天から神の火が下り、燔祭(全焼のいけにえ)が完成しました(:38)。イスラエルの礼拝は回復せられ(:39)、彼らの礼拝は神に受け入れられました。

 「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:17)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/05/18

2025年5月18日「道・真理・命」

ヨハネ14:6-12
 14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
 14:7 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。
 14:8 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
 14:9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
 14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
 14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
 14:12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。

 イエス・キリストは十字架の死による別離に先立ち、弟子たちに愛をもって真理を教え諭しました(ヨハネ13:1)。その教えの要点は「道・真理・命」でした(:6)。

 「道」とは、父なる神のみもとに行く道です。キリストは弟子たち、すなわち私たちクリスチャンたちのため、神の国にすまいを用意すると約束されました(ヨハネ14:2)。私たちの最大の懸案は人生の行く末であり、キリストは私たちを天に迎え、永遠にともにおらせてくださいます(ヨハネ14:3)。

 「真理」とは、私たちの無理解を解消するものです。私たちの心に真理がなければ、心が騒ぎ、信仰に立てません(ヨハネ14:1)。心に真理があれば、私たちは自由を得(ヨハネ8:32)、聖別された者となれます(ヨハネ17:17)。

 「命」こそ、私たちの人生の行く末です。私たちはキリストに従って道を歩むことで、真理を得、命に至ることができます。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。」(ヨハネ3:36)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/05/11

2025年5月11日「皆が一つの御霊を飲む」

コリント第一12:4-13
 12:4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
 12:5 務は種々あるが、主は同じである。
 12:6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
 12:7 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。
 12:8 すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、
 12:9 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、
 12:10 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。
 12:11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。
 12:12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。
 12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。

 「霊の賜物」(:4)とは、「神の霊」すなわち「聖霊」からクリスチャンが受け取る特別な恵みです。すべてのクリスチャンは「イエスは主である」ということのできる信仰を御霊から賜物として受け取っています(コリント第一12:3)。

 全員共通の賜物だけでなく、「御霊は思いのままに」(:11)めいめいのクリスチャンに別個の、特別な賜物を与えています(:8-10)。重要なのは、めいめいの特別なタラント(マタイ25:14-30)の違いではなく、多様な賜物を与える一つの御霊であり、御霊に賜物を与える権限があるということです。

 ですから、現実の教会には多様な人々が集まっていますが、同じ一つの御霊によって一つの教会とせられ、かしらなるキリスト(コロサイ2:19)に従う一つのからだとして一致することができます(:12)。クリスチャンはバプテスマ(洗礼)によって神に飲まれると同時に、聖餐に示されているように、神を飲む恵みに与っています(:13)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/05/04

2025年5月4日「主のしもべたちは食べる」

イザヤ65:13-18
 65:13 それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わがしもべたちは食べる、しかし、あなたがたは飢える。見よ、わがしもべたちは飲む、しかし、あなたがたはかわく。見よ、わがしもべたちは喜ぶ、しかし、あなたがたは恥じる。
 65:14 見よ、わがしもべたちは心の楽しみによって歌う、しかし、あなたがたは心の苦しみによって叫び、たましいの悩みによって泣き叫ぶ。
 65:15 あなたがたの残す名はわが選んだ者には、のろいの文句となり、主なる神はあなたがたを殺される。しかし、おのれのしもべたちを、ほかの名をもって呼ばれる。
 65:16 それゆえ、地にあっておのれのために祝福を求める者は、真実の神によっておのれの祝福を求め、地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、わが目から隠れうせるからである。
 65:17 見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
 65:18 しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。

 主なる神が「わがしもべは食べ、あなたがたは飢える」と言われます(:13)。神の祝福に与る神のしもべと対比されている「あなたがた」とは誰でしょうか。それは聖書の神である「主を捨て」(イザヤ65:11)て、他の神々に仕える者です。事もあろうに、それは神によって選ばれたイスラエルの民そのものです。「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。…ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。」(イザヤ59:1)

 神の選民が当然神の祝福に与るのではありません。しかし、神の祝福は神の選民のために用意されています。祝福は神の招きに応じ、神に従う者に与えられます。「自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。」(イザヤ65:2)

 神の御旨に従う新しい民に、神は「新しい天と、新しい地」(:17)を用意してくださいます。「すべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。」(伝道3:13)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/27

2025年4月27日「初めで終りで生きている」

黙示録1:12-18
 1:12 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。
 1:13 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
 1:14 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。
 1:15 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
 1:16 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
 1:17 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、
 1:18 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。

 「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの」(ヨハネ第一1:1)と言うほど、キリストの弟子であるヨハネは師をよく知っているという自負がありました。しかし、流刑地パトモス(黙示録1:9)でヨハネが見たキリストの黙示(黙示録1:1)は様子が違っていました。

 黙示録の内容は、キリストから示された未来の出来事をヨハネが記録したものです。そのすべての意味が明らかであるわけではありませんが、一部について理解の鍵となる解説が与えられています。七つの燭台は七つの教会を示しています(黙示録1:20)。その教会の間にいる者とは、教会のかしらたるキリストを意味します(エペソ5:23)。

 キリストご自身が自らを証言します。「わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。」(:17-18)十字架の死による贖罪を成し遂げたキリストはよみがえり、今も生きて教会とともにあるだけでなく、これからも私たちを導いてくださいます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/04/24

聖書の教理~(32)新しい命

 死からのよみがえり、新しい命について、旧約聖書も新約聖書も多く証言しています。

 「神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府(死)の力からあがなわれる。」(詩篇49:15)

 「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記5:24)

 「両眼がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片目になって神の国に入る方がよい。」(マルコ9:47)

 「勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう」(黙示録2:7)。

 昇天される前、キリストは私たちに約束を残しました。「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:3)

 聖書の神が約束される永遠の命があなたのものとなりますように祈ります。「神はそのひとり子(キリスト)を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)

2025/04/20

2025年4月20日「わたしにはわからない」

ヨハネ20:11-18
 20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
 20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
 20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
 20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
 20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
 20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
 20:17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。
 20:18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。

 ヨハネ伝のイースターは、マグダラのマリヤの出来事から始まります。彼女は他の者とともに連れ立ち、葬られたキリストの弔いのため墓に来ました。それは週の初めの日、すなわち日曜日の早朝のことでした(マルコ16:1-2)。そこで彼女は空の墓を発見し、他の弟子たちに報告しました(ヨハネ20:1-2)。

 その後もマリヤは墓から離れることができませんでした。そこで天の御使いを見たりしますが(:12)、彼女の心はキリストの死体の在りかだけに向かっていました(:13)。そこにキリストご自身が立っておられたのにも関わらず気がつかなかったのです(:14)。

 弟子たちはその目で見、ごく身近に触れていた(ヨハネ第一1:1)にも関わらず、復活の主がわからなかったのです。しかし、主の声を聞くなり、マリヤも復活の主がわかるようになりました(:16)。キリストが言われた通り、「羊は彼(羊飼)の声を聞く」(ヨハネ10:3)のです。

 「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」(マタイ7:7)とキリストは言われました。主は捜し求める者に現れて、御声をかけてくださいます。その時、私たちも「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(詩篇23:1)と言うことができます。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)