2024/09/08

2024年9月8日(日) 洗礼式


  本日は主日礼拝の前に洗礼式が行われました。洗礼式はイエス・キリストの命令によるもので(マタイ28:19)、教会員となる前に行われる入会儀式です。志村キリスト教会では、1階の床下に、全身を水に浸して行う洗礼式(浸礼)を行うための「洗礼槽」があります。前日より洗礼槽を清掃し、当日の朝、水を張って準備しました。

 今回洗礼を受けられた兄弟(男性のクリスチャン)は、「朝早く眠かったが、洗礼を受けて目が覚めた!」と興奮気味に語っていました。おそらく、それ以上の感動的な体験を得たのだろうな、と先輩の教会員たちは喜んで、その兄弟を教会の仲間に迎えてくれました。

2024/08/01

主イエス・キリストのたとえ話

 

 イエス・キリストは、群衆に対し多くのことを譬(たとえ話)によって教えられました(マルコ4:2)。その後、キリストは弟子たちに対し、たとえ話の意味を解き明かしました(マルコ4:10)。キリストがたとえを用いて語った理由は、聞く耳のある者に神の奥義を伝えるため、聞く耳を持たない者には謎として残すためでした(マタイ13:9-13)。

 しかし、キリストの話は多くの人々に権威を感じさせる力を持ち(マタイ7:29)、聞く耳を持つ者には理解を促し、興味をひきつける工夫に満ちていました(マルコ4:33)。一例として、古代オリエント世界でよく用いられた「誇張法」(当時の農業水準を超える百倍の収穫、マルコ4:8)が挙げられます。また、聞き手の生活に身近な話題を用いつつ、その中に注意を引く異常な変化を持たせました(良い麦畑に出た毒麦、マタイ13:27)。また、主な聴衆であるイスラエル人の常識である旧約聖書からの引用も多くありました。
※マタイ13:32(鳥が巣を作るほどの大木)=エゼキエル31:6(世界帝国のたとえ)

 たとえ話は繰り返し語られ、異なる人々に対して語られました。聴衆によりたとえ話の強調点が変わることがあります。「ぶどう園の主人」のたとえ話(マタイ20:1-16)では、主人に雇われること、主人に選ばれること、賃金の逆転、または賃金の平等、主人の気前よさ、と複数の強調点を見出すことができます。しかし、キリストのたとえ話は物語の第二の頂点の方に、より重要な真理が秘められています(ルカ12:36-48)。

 福音書に収められたキリストのたとえ話は、教会の長い歴史の中で繰り返し語られてきました。教会では多くの場合、聖書全体がキリストを指し示すものとして寓喩的に解釈されてきました。しかし、その解釈は教会による二次的な意味づけであり、キリストが最初に教えようとされた真理から外れている可能性があります。キリストは数多くのたとえ話を「天国の奥義」を教えるために語られました。キリストが語られた中心的なメッセージを見失わないようにしましょう。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)

参考資料:ヨアヒム・エレミアス「イエスの譬え」新教出版社(1969年)

2024/07/25

聖書の教理~(16)キリストの働き

 イエス・キリストの福音の中心は、キリストが行われた働き(御業)です(コリント第一15:1-11)。キリストが数多くなされた働きのうち、三つのことを取り上げます。

 a)キリストの死:キリストは十字架にかかり死なれました。それはキリストを信じる者の罪をあがなうため(ヘブル9:15)、そして彼らに永遠の命を得させるためです(ヨハネ3:16)。キリスト、また彼を信じるクリスチャンにとって、キリストの死は終わりではなく、新しい命の始まりです。

 b)キリストの復活:キリストは死んで葬られた後、三日目によみがえりました。その事実は、キリスト一人だけに留まるものではなく、クリスチャンにも及ぶ復活の希望の根拠となります(コリント第一15:19-20)。その復活の証拠として示されたのは空の墓でした(ヨハネ20:24-29)。まさに「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)と言われている通りです。

 c)キリストの昇天:キリストは弟子たちが見ている前で天に上げられ、姿が見えなくなりました(使徒1:9)。そのことは、キリストがもはや地上の見える存在ではなく、今も天において救いのため働いておられることを示しています。そして、私たちのうちに宿られる神の御霊によって、私たちもキリストと同じ天上の命によって生かされています(ローマ8:9-11)。

 キリストはこのような約束を与えておられます。「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。…ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:18-20)。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/07/18

聖書の教理~(15)キリストの職務

 「キリスト」という言葉は「神から油注がれた者」を意味します(使徒4:27)。油注ぎは、特に旧約聖書時代において預言者(列王紀上19:16)、祭司(出エジプト28:41)、王(サムエル上10:1)の任命式において行われました。イエス・キリストはこれらの三つの職務を担われています。

 a)預言者としてのキリスト:キリストは当時の人々から預言者とみなされていました(マタイ21:11)。キリストは預言者として救いの福音を告げ(ルカ4:18-19)、天国(神の国)を告げ(マタイ4:17)、将来の出来事を告げました(ヨハネ14:29)。

 b)祭司としてのキリスト:キリストは地上の祭司ではありませんでしたが、天上の祭司として今も働いておられます。祭司は民の罪のあがないのための奉仕を担います。キリストは全人類の罪のあがないのために人と同じになられました(ヘブル2:17)。また、罪のあがないしろとして自ら犠牲となり(ヘブル9:12)、今も天において人々のためとりなしをしておられます(ヘブル7:25)。

 c)王としてのキリスト:キリストは神により永遠の祭司また王として任命されました(詩篇110:4)。キリストは永遠の王権を約束されたダビデの子孫であり(エゼキエル37:25)、きたる再臨の時、キリストは王として地上に来られて王座につかれます(マタイ25:31)。

 キリストの言葉と御業の力強さが示す権威は、神から「油注がれた者」としての権威です。「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。』」(マタイ28:18)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/07/11

聖書の教理~(14)キリストの性質

 イエス・キリストは「あなたがたはわたしをだれと言うか」(マタイ16:15)と尋ねられました。キリストについて人々が様々に言う時、その言葉はその人々が見取ったキリストの性質(本質)を表現します。聖書はキリストをいくつかの呼び名で呼び、その名で神が明らかにした(啓示した)キリストの性質を示しています。

 a)神の子:「これはわたしの愛する子」(マタイ3:17、27:54)

 b)ことば:「神は…御子によって、わたしたちに語られた」(ヘブル1:1-2、ヨハネ1:1)

 c)主:「イエスを、神は、主…としてお立てになった」(使徒2:36)

 d)人の子:「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっている」(マタイ9:6)

 e)キリスト:「わたしを聖別してくださった」(ルカ4:18)=「主がわたしに油を注いで」(イザヤ61:1)

 f)ダビデの子:「神は彼に父ダビデの王座をお与えになり」(ルカ1:32)

 g)イエス:「イエスと名づけなさい。彼は…罪から救う者」(マタイ1:21)

 現代でもキリストは、人々の心の思いを投影するように、様々に語られています(マタイ16:13-14)。しかし、天から示された救いの御業をキリストに期待するなら、私たちは聖書の教えに耳を傾けるべきです。「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。』」(ヨハネ14:6)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/07/04

聖書の教理~(13)罪の結果

 聖書が教える「罪」の性質はその呼び名に表れています。

 聖書の「罪」という言葉の元々の意味は「的はずれ」です。旧約聖書のヘブル語ではハタート(創世記4:7等)、新約聖書のギリシャ語ではハマルティア(ペテロ第一2:24等)と言います。「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼(キリスト)の上におかれた。…彼は多くの人の罪(ハタート)を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(イザヤ53:6,12)

 そのほか、罪に関連する言葉として悪(創世記6:5)、暴虐(創世記6:11)、汚れ(レビ11:24)、曲ったこと(箴言4:24)、負債(マタイ6:12)、不従順(ヘブル2:2)、不法(ヨハネ第一3:4)があり、それぞれ罪を犯すことのないように戒められています。

 罪を犯した結果はのろわれています。罪は人間の基である「神のかたち」を壊し(ヤコブ3:9)、子孫に罪を伝え(詩篇51:5)、最終的に人を死に至らせます(ローマ6:23)。

 キリストの救いはこの罪と死の、両方ののろいからの救いです。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/06/27

聖書の教理~(12)罪の起源

 聖書はすべての人が「ことごとく罪の下にある」(ローマ3:9)と言っています。この「罪」という言葉、罪が示す内容について、多くの人にとって受け入れがたいものであるようです。

 ある人は「罪というものは存在しない」と言います。しかし、様々なことを経験した結果、「わたしは…罪を犯しました」と告白する人もいます(ルカ15:21)。

 ある人は「罪は避けられないものだ」と言います。しかし、聖書は「祝福とのろいをあなたの前に置いた」と言い、のろいを招くことになる罪を避けよと命じています(申命記30:19)。

 ある人は「罪は人にとって自然なことである」と言います。そのような人々に対し、「彼らは悪を呼んで善といい、善を呼んで悪とい」うと言って戒めています(イザヤ5:20)。

 ある人は「罪は妄想である」と言います。しかし、聖書は「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た」と言い、ある人は罪の罪深さを悟るようになることを示しています(イザヤ9:2)。

 創世記3章は、人が罪を犯すようになったきっかけについて多くの示唆を与えています。人は神の命令に背いて罪を犯すように誘惑され(創世記3:1-6)、罪を犯した結果、罪責感が芽生え(創世記3:7-13)、罪を犯した人は神にさばかれて有罪とされます(創世記3:14-19)。しかし、神は罪を犯した人をあわれんで裸を覆われました(創世記3:21)。

 イエス・キリストの救いの最大のものは、罪からの救いです。「彼(イエス・キリスト)は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う」(マタイ1:21)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)