詩篇99篇99:1 主は王となられた。もろもろの民はおののけ。主はケルビムの上に座せられる。地は震えよ。99:2 主はシオンにおられて大いなる神、主はもろもろの民の上に高くいらせられる。99:3 彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名をほめたたえるであろう。主は聖でいらせられる。99:4 大能の王であり、公義を愛する者であるあなたは堅く公平を立て、ヤコブの中に正と義とを行われた。99:5 われらの神、主をあがめ、その足台のもとで拝みまつれ。主は聖でいらせられる。99:6 その祭司の中にモーセとアロンとがあった。そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。彼らが主に呼ばわると、主は答えられた。99:7 主は雲の柱のうちで彼らに語られた。彼らはそのあかしと、彼らに賜わった定めとを守った。99:8 われらの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、悪を行う者には報復された。99:9 われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。われらの神、主は聖でいらせられるからである。
2025/06/15
2025年6月15日「大能の王である神」
2025/06/08
2025年6月8日「主は正義に勝ちを得させる」
マタイ12:14-2112:14 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。12:15 イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、12:16 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。12:17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、12:18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。12:19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。12:20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。12:21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。
イエス・キリストの宣教活動は、信じない者にとっては不可解なものでした。信仰を持たなかったキリストの兄弟たちは、「自分をはっきりと世にあらわしなさい」と言いました(ヨハネ7:3-5)。キリストは信じることなく敵対する人々からは身を隠す一方、信仰をもって求める人々には身を現し、教えと奇跡をもってその望みに応えました(:14-15)。
キリストは、「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」(マタイ13:12)と言われました。それが神に選ばれた僕の使命であり、「正義を…宣べ伝える」(:18)と言われていても、「その声を大路で聞く者はない」(:19)と言われるキリストの宣教のあり方でした。
キリストは「狭い門からはいれ」(マタイ7:13)と言われます。「それを見いだす者が少ない」(マタイ7:14)といっても、キリストの道に望みを置く者はそれを見出すのです。「捜せ、そうすれば、見いだすであろう。」(マタイ7:7)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2025/06/06
2025年6月22日(日) 献堂71周年記念礼拝
2025/06/01
2025年6月1日「光・知恵・さんび」
エペソ5:14-215:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。5:15 そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、5:16 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。5:17 だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。5:18 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、5:19 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。5:20 そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、5:21 キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。
聖書は「神は光」(ヨハネ第一1:5)であると言い、光のたとえによって神を説明しています。「光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである」(エペソ5:9)
一方、私たち人間は光でなくやみ、すなわち神と異なる存在であると聖書は語ります。しかし、「以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」(エペソ5:8)と言われます。光なる神を信じ、従うことで「光の子」(エペソ5:8)として歩むことができると聖書は教えます。「立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう」(:14)
光は知恵をも意味します。やみ路を照らす光のように、神は暗い人生に光を照らし、正しい人生を歩ませます(:15)。「時を生かして用いなさい」(:16)とは、悪に頼らず正義によって生きることを勧める言葉です。聖書は乱行を戒めます(:18)。
神の光に照らされた心は神の知恵に満たされ、罵りではなくさんび(:19)、感謝(:20)の言葉があふれるようになります。「互に仕え合う」(:21)ことこそキリスト教の最高の美徳です。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2025/05/25
2025年5月25日「主の祭壇を修繕する」
列王紀上18:30-39
18:30 その時エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。
18:31 そしてエリヤは昔、主の言葉がヤコブに臨んで、「イスラエルをあなたの名とせよ」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取り、
18:32 その石で主の名によって祭壇を築き、祭壇の周囲に種二セヤをいれるほどの大きさの、みぞを作った。
18:33 また、たきぎを並べ、牛を切り裂いてたきぎの上に載せて言った、「四つのかめに水を満たし、それを燔祭とたきぎの上に注げ」。
18:34 また言った、「それを二度せよ」。二度それをすると、また言った、「三度それをせよ」。三度それをした。
18:35 水は祭壇の周囲に流れた。またみぞにも水を満たした。
18:36 夕の供え物をささげる時になって、預言者エリヤは近寄って言った、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。
18:37 主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
18:38 そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。
18:39 民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。
預言者エリヤは、イスラエルの王家に従う異教の預言者らと対決しました(列王紀上18:24)。イスラエルの民は、父祖の神に従うとともに異教の神々にも従う、どっちつかずの信仰でした(列王紀上18:21)。エリヤはイスラエルの民の信仰にも対決したのでした。
定例の礼拝の時に至り、異教の預言者の祈りに未だ答えはありませんでした(列王紀上18:29)。エリヤは民を聖書の神、主の祭壇に招き、民は招きに応じました(:30)。ここから、エリヤは民の手を用いて、崩れた主の祭壇を修繕しました(:31-35)。エリヤは、民の間に失われていた真の礼拝の心を取り戻させました。
繕われた祭壇はイスラエルの民の手による、イスラエルの名と心が込められたものでした。そこに人手によらず、天から神の火が下り、燔祭(全焼のいけにえ)が完成しました(:38)。イスラエルの礼拝は回復せられ(:39)、彼らの礼拝は神に受け入れられました。
「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:17)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2025/05/18
2025年5月18日「道・真理・命」
ヨハネ14:6-1214:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。14:7 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。14:8 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。14:9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。14:12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
イエス・キリストは十字架の死による別離に先立ち、弟子たちに愛をもって真理を教え諭しました(ヨハネ13:1)。その教えの要点は「道・真理・命」でした(:6)。
「道」とは、父なる神のみもとに行く道です。キリストは弟子たち、すなわち私たちクリスチャンたちのため、神の国にすまいを用意すると約束されました(ヨハネ14:2)。私たちの最大の懸案は人生の行く末であり、キリストは私たちを天に迎え、永遠にともにおらせてくださいます(ヨハネ14:3)。
「真理」とは、私たちの無理解を解消するものです。私たちの心に真理がなければ、心が騒ぎ、信仰に立てません(ヨハネ14:1)。心に真理があれば、私たちは自由を得(ヨハネ8:32)、聖別された者となれます(ヨハネ17:17)。
「命」こそ、私たちの人生の行く末です。私たちはキリストに従って道を歩むことで、真理を得、命に至ることができます。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。」(ヨハネ3:36)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2025/05/11
2025年5月11日「皆が一つの御霊を飲む」
コリント第一12:4-1312:4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。12:5 務は種々あるが、主は同じである。12:6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。12:7 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。12:8 すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、12:9 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、12:10 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。12:11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。12:12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。
「霊の賜物」(:4)とは、「神の霊」すなわち「聖霊」からクリスチャンが受け取る特別な恵みです。すべてのクリスチャンは「イエスは主である」ということのできる信仰を御霊から賜物として受け取っています(コリント第一12:3)。
全員共通の賜物だけでなく、「御霊は思いのままに」(:11)めいめいのクリスチャンに別個の、特別な賜物を与えています(:8-10)。重要なのは、めいめいの特別なタラント(マタイ25:14-30)の違いではなく、多様な賜物を与える一つの御霊であり、御霊に賜物を与える権限があるということです。
ですから、現実の教会には多様な人々が集まっていますが、同じ一つの御霊によって一つの教会とせられ、かしらなるキリスト(コロサイ2:19)に従う一つのからだとして一致することができます(:12)。クリスチャンはバプテスマ(洗礼)によって神に飲まれると同時に、聖餐に示されているように、神を飲む恵みに与っています(:13)。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)