2023/06/11

2023年6月11日の聖書日課

(写真:テッポウユリ)

使徒2:42-47
 2:42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。
 2:43 みんなの者におそれの念が生じ、多くの奇跡としるしとが、使徒たちによって、次々に行われた。
 2:44 信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、
 2:45 資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。
 2:46 そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、
 2:47 神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/06/04

2023年6月4日3分メッセージ



 出エジプト19章20節をお読みします。
主はシナイ山の頂に下られた。そして主がモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。

 モーセに導かれてエジプトを出たイスラエルの民は、シナイ山のふもとで神から十戒を始めとする律法を受け取りました(出エジプト20章)。この律法によってイスラエルは民族集団から法治国家へと変貌しました。
 このイスラエルにとって重要な節目の時に、人々は律法に従うという誓いを立て(出エジプト19章8節)、神との対面に備えて身を清めました(出エジプト19章10~15節)。山のふもとに立った人々は、山の頂の恐るべき光景、地震と大音響に震え上がり、直接会うことのできない神の尊厳に触れました(出エジプト19章10~18節)。
 その中でただ一人、モーセが民の前に立って神と語り合い、神に呼び出されてモーセは山に登っていきました(出エジプト19章19~25節)。この出来事の後、イスラエルの民はモーセを神の代言者、神と人々の間を取り持つ仲介者として、モーセを尊敬するようになりました(出エジプト34章29~35節)。
 神の民が律法を受け取る出来事は、時代を超えて人が神とどのように関わりを持つべきかを教えています(ガラテヤ3章19~20節)。今の時代、神と人との間に立つ仲介者(仲保者)はイエス・キリストです(テモテ第一2章5節)。全能の神に向けて祈りをささげることは、本質的には恐れ多いことで、何の準備も持たずにできることではありません。私たちは「イエス・キリストの御名によって」始めて祈りをささげることができるのです。
 ですから、今私たちは聖書の言葉に励まされて気兼ねなく祈りたいと思います。「わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」(ヘブル4章16節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちはキリストの御名によって祈ることができることを感謝します。全能の神の御前に恐れつつ、しかし私たちの切なる祈りを親しく聞き届けて下さる恵みが与えられています。益々勇気をもって祈り続けることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年6月4日の聖書日課

(写真:キリ)

出エジプト19:16-20
 19:16 三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。
 19:17 モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。
 19:18 シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。
 19:19 ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。
 19:20 主はシナイ山の頂に下られた。そして主がモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/05/28

2023年5月28日3分メッセージ



 ルカ11章1節をお読みします。
また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。

 神の御子イエス・キリストは弟子たちに「主の祈り」(ルカ11章2~4節、マタイ6章9~13節)という祈りの言葉を教えられました。また度々自ら祈られた方であり、弟子たちはキリストの祈りの姿から祈ることについて学びました。
 祈りは必ずしも決められた祈りの言葉、祈りの方法で祈らなければならないものではありません。聖書の神は私たちの切なる祈りを聞き届けられ、言葉に表せないような心の底からの願いを知ってくださる方です。ローマ書にも、私たちの祈りを助ける神の御霊について次のように書かれています。
 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」(ローマ8章26節)
 また私たちの側も、神が祈りを聞き届けられるという信仰をもって祈り続けることが大切です(ルカ11章5~8節)。うまく言葉に表せなくても、神に祈りの心をまっすぐに向け、自らの願いを自分自身の言葉で表すことも大切なことです(ルカ18章41節)。
 祈るときには、迷わず神に自らの思いを打ち明けることです。その時、神は私たちの祈りに対し親しく耳を傾けてくださいます。キリストはこう言って励ましています。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(ルカ11章9節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは神の御子イエス・キリストご自身が祈りをささげられたことに励まされます。私たちは神様の特別なご愛顧を必要としています。キリストが教えられたとおり、信仰をもって祈り続けることができますように。どうぞ私たちの切なる祈りを聞き届けてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年5月28日の聖書日課

(写真:ワスレナグサ)

ルカ11:1-8
 11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。
 11:2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。
 11:3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。
 11:4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
 11:5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
 11:6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、
 11:7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。
 11:8 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/05/21

2023年5月21日3分メッセージ



 エゼキエル43章4節、5節をお読みします。
主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった時、霊がわたしを引き上げて、内庭に導き入れると、見よ、主の栄光が宮に満ちた。

 預言者エゼキエルの時代、イスラエルの国はバビロンの国に滅ぼされ、イスラエル人たちはバビロンに捕囚として強制的に移住させられました(エゼキエル1章1節)。祖国や家族を奪われて絶望のどん底にあったイスラエル人に向けて、聖書の神は預言者たちを通してなおも救いのメッセージを届けられました。
 祖国から遠く離れた異国の地で、イスラエル人たちは慣れない生活を強いられました。それだけではなく、彼らが「主の神殿」(エレミヤ7章4節)と言って心の拠り所としていたエルサレムの神殿も破壊されてしまい、彼らの見るところ希望は何一つ残されていないように思われました(エゼキエル9章)。
 しかし、神は預言者エゼキエルに、失われたはずの神殿の幻を見させました(エゼキエル40~48章)。それだけではなく、立派な神殿、すなわち神がその御名を置くために選ばれた神の宮に、神の栄光が戻って来て、神殿が神の栄光に輝いている幻を見させました。
 実は、ありし日の神の宮は、立派な姿を見せていても、その中で不正が行われ(エゼキエル8章)、神の栄光が宮から去ってしまった時点で、神の宮の本来の使命は失われてしまったのでした(エゼキエル10章18~19節)。
 新約聖書のコリント第一書では、このような言葉があります。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」(コリント第一3章16節)今日のクリスチャンは教会に集まって神に礼拝を捧げます。たとえどんなに立派な教会堂であっても、その中で本来あるべき神への礼拝が行われないなら、その教会は死んだも同然です。
 同じ意味で、教会の本質は建物ではなく、その中に集まるクリスチャンの集まりにあります。キリストはこのように言っています。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18章20節)。信仰の集まるところに神もともにいてくださいます。ぜひ神の宮であるキリスト教会に神の祝福を求めて集まってください。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。神への信仰の集まるところに、神様ご自身が来てくださるという約束の言葉を感謝いたします。この数年間の間、私たちは一つ所に集まる機会を持つことができませんでした。どうぞ私たちの集まりを妨げるすべての障害を取り除いてください。そして共に集まり、神の栄光を仰ぎ見て、共に喜び合うことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年5月21日の聖書日課

(写真:フェイジョア)

エゼキエル43:1-7
 43:1 その後、彼はわたしを門に導いた。門は東に面していた。
 43:2 その時、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその栄光で輝いた。
 43:3 わたしが見た幻の様は、彼がこの町を滅ぼしに来た時に、わたしが見た幻と同様で、これはまたわたしがケバル川のほとりで見た幻のようであった。それでわたしは顔を伏せた。
 43:4 主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった時、
 43:5 霊がわたしを引き上げて、内庭に導き入れると、見よ、主の栄光が宮に満ちた。
 43:6 その人がわたしのかたわらに立った時、わたしはひとりの人が、宮の中からわたしに語るのを聞いた。
 43:7 彼はわたしに言った、「人の子よ、これはわたしの位のある所、わたしの足の裏の踏む所、わたしが永久にイスラエルの人々の中に住む所である。またイスラエルの家は、民もその王たちも、再び姦淫と、王たちの死体とをもって、わが聖なる名を汚さない。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)