2023/06/04

2023年6月4日の聖書日課

(写真:キリ)

出エジプト19:16-20
 19:16 三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。
 19:17 モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。
 19:18 シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。
 19:19 ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。
 19:20 主はシナイ山の頂に下られた。そして主がモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/05/28

2023年5月28日3分メッセージ



 ルカ11章1節をお読みします。
また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。

 神の御子イエス・キリストは弟子たちに「主の祈り」(ルカ11章2~4節、マタイ6章9~13節)という祈りの言葉を教えられました。また度々自ら祈られた方であり、弟子たちはキリストの祈りの姿から祈ることについて学びました。
 祈りは必ずしも決められた祈りの言葉、祈りの方法で祈らなければならないものではありません。聖書の神は私たちの切なる祈りを聞き届けられ、言葉に表せないような心の底からの願いを知ってくださる方です。ローマ書にも、私たちの祈りを助ける神の御霊について次のように書かれています。
 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」(ローマ8章26節)
 また私たちの側も、神が祈りを聞き届けられるという信仰をもって祈り続けることが大切です(ルカ11章5~8節)。うまく言葉に表せなくても、神に祈りの心をまっすぐに向け、自らの願いを自分自身の言葉で表すことも大切なことです(ルカ18章41節)。
 祈るときには、迷わず神に自らの思いを打ち明けることです。その時、神は私たちの祈りに対し親しく耳を傾けてくださいます。キリストはこう言って励ましています。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(ルカ11章9節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは神の御子イエス・キリストご自身が祈りをささげられたことに励まされます。私たちは神様の特別なご愛顧を必要としています。キリストが教えられたとおり、信仰をもって祈り続けることができますように。どうぞ私たちの切なる祈りを聞き届けてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年5月28日の聖書日課

(写真:ワスレナグサ)

ルカ11:1-8
 11:1 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。
 11:2 そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。
 11:3 わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。
 11:4 わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。
 11:5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
 11:6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、
 11:7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。
 11:8 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/05/21

2023年5月21日3分メッセージ



 エゼキエル43章4節、5節をお読みします。
主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった時、霊がわたしを引き上げて、内庭に導き入れると、見よ、主の栄光が宮に満ちた。

 預言者エゼキエルの時代、イスラエルの国はバビロンの国に滅ぼされ、イスラエル人たちはバビロンに捕囚として強制的に移住させられました(エゼキエル1章1節)。祖国や家族を奪われて絶望のどん底にあったイスラエル人に向けて、聖書の神は預言者たちを通してなおも救いのメッセージを届けられました。
 祖国から遠く離れた異国の地で、イスラエル人たちは慣れない生活を強いられました。それだけではなく、彼らが「主の神殿」(エレミヤ7章4節)と言って心の拠り所としていたエルサレムの神殿も破壊されてしまい、彼らの見るところ希望は何一つ残されていないように思われました(エゼキエル9章)。
 しかし、神は預言者エゼキエルに、失われたはずの神殿の幻を見させました(エゼキエル40~48章)。それだけではなく、立派な神殿、すなわち神がその御名を置くために選ばれた神の宮に、神の栄光が戻って来て、神殿が神の栄光に輝いている幻を見させました。
 実は、ありし日の神の宮は、立派な姿を見せていても、その中で不正が行われ(エゼキエル8章)、神の栄光が宮から去ってしまった時点で、神の宮の本来の使命は失われてしまったのでした(エゼキエル10章18~19節)。
 新約聖書のコリント第一書では、このような言葉があります。「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」(コリント第一3章16節)今日のクリスチャンは教会に集まって神に礼拝を捧げます。たとえどんなに立派な教会堂であっても、その中で本来あるべき神への礼拝が行われないなら、その教会は死んだも同然です。
 同じ意味で、教会の本質は建物ではなく、その中に集まるクリスチャンの集まりにあります。キリストはこのように言っています。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18章20節)。信仰の集まるところに神もともにいてくださいます。ぜひ神の宮であるキリスト教会に神の祝福を求めて集まってください。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。神への信仰の集まるところに、神様ご自身が来てくださるという約束の言葉を感謝いたします。この数年間の間、私たちは一つ所に集まる機会を持つことができませんでした。どうぞ私たちの集まりを妨げるすべての障害を取り除いてください。そして共に集まり、神の栄光を仰ぎ見て、共に喜び合うことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年5月21日の聖書日課

(写真:フェイジョア)

エゼキエル43:1-7
 43:1 その後、彼はわたしを門に導いた。門は東に面していた。
 43:2 その時、見よ、イスラエルの神の栄光が、東の方から来たが、その来る響きは、大水の響きのようで、地はその栄光で輝いた。
 43:3 わたしが見た幻の様は、彼がこの町を滅ぼしに来た時に、わたしが見た幻と同様で、これはまたわたしがケバル川のほとりで見た幻のようであった。それでわたしは顔を伏せた。
 43:4 主の栄光が、東の方に面した門の道から宮にはいった時、
 43:5 霊がわたしを引き上げて、内庭に導き入れると、見よ、主の栄光が宮に満ちた。
 43:6 その人がわたしのかたわらに立った時、わたしはひとりの人が、宮の中からわたしに語るのを聞いた。
 43:7 彼はわたしに言った、「人の子よ、これはわたしの位のある所、わたしの足の裏の踏む所、わたしが永久にイスラエルの人々の中に住む所である。またイスラエルの家は、民もその王たちも、再び姦淫と、王たちの死体とをもって、わが聖なる名を汚さない。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/05/14

2023年5月14日3分メッセージ



 ルカ7章6節、7節をお読みします。
百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。…ただ、お言葉を下さい。…

 イエス・キリストが活動した時代は、紀元1世紀の初期ローマ帝国の時代でした。当時のローマ帝国にとって辺境の地であったイスラエルは、ローマ帝国に服属するヘロデ大王の子孫によって支配されていました。そのため、イスラエルの国中にローマの軍隊が駐屯しており、イスラエル人はローマ帝国の支配に服していました。
 イスラエルの地において、庶民に最も身近なところでローマ帝国の権威を司っていたのが「百卒長」という人々でした。百卒長が率いるローマの軍隊は、治安維持の活動だけでなく、今日でいう行政の多くの働きを司っていました。ローマ帝国の権威を司る百卒長は人々から恐れられていましたが、中には住民のため協力を惜しまず、非常な尊敬を受けていた百卒長もありました(ルカ7章5節)。
 そのような尊敬されていた百卒長の一人が、キリストに助けを求めました。この百卒長の頼みにしていた部下が病気で死にかかっており、病気のいやしの奇跡を期待したためでした(ルカ7章2~3節)。百卒長は日ごろ権威に服する者であり、イスラエル人に協力しながらもローマ帝国と立場が違うことを弁えて、ユダヤ人、すなわちイスラエル人の長老を交渉役として間に立てる配慮も持った人物でした。
 この百卒長は、キリストに病気をいやす神の力と権威があることを認めたのでした(ルカ9章1節)。キリストはこの百卒長の態度と言葉とを見てとって非常に感心され、「これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」と言われました。その後、百卒長の部下は信じたとおりにいやされました(ルカ7章9~10節)。
 この百卒長は自分の持つ権威に頼らず、代わりにキリストの権威を認めてそれに頼りました。聖書の神の前に、すべての人間は天からの祝福を受ける資格がある訳ではありません(ルカ15章21節)。しかし、どんなに立場が遠くとも神の権威を認めてより頼む者に、神は祝福をもって報いてくださいます。神は私たちの祈りに応え、私たちを顧みてくださる方です(ルカ7章16節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストは本物の権威を認めた百卒長の信仰に応え、百卒長の願いは叶えられました。私たちもこの信仰の模範に励まされ、信仰を持って本物の権威を持たれる神様により頼みます。どうぞ私たちの祈りに応え、私たちを顧みてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年5月14日の聖書日課

(写真:ヒトツバタゴ)

ルカ7:1-10
 7:1 イエスはこれらの言葉をことごとく人々に聞かせてしまったのち、カペナウムに帰ってこられた。
 7:2 ところが、ある百卒長の頼みにしていた僕が、病気になって死にかかっていた。
 7:3 この百卒長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした。
 7:4 彼らはイエスのところにきて、熱心に願って言った、「あの人はそうしていただくねうちがございます。
 7:5 わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」。
 7:6 そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。
 7:7 それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。
 7:8 わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
 7:9 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。
 7:10 使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)