2022/10/24

2022年10月30日の聖書日課

(写真:ミセバヤ)

ローマ5:17-21
 5:17 もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。
 5:18 このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである。
 5:19 すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。
 5:20 律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。
 5:21 それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2022/10/23

2022年10月23日(日) 教会近況


  今年の秋は過ごしやすい日が続き、紅葉もゆっくり進んでいます。志村キリスト教会の近況についてお知らせします。

1)定例集会は以下の通り、感染対策の特別スケジュールを継続しています。

        主日礼拝: 毎週日曜日 午前10:30~11:30
        祈祷会:  毎週木曜日 午後 2:00~ 3:00

2)ホームページでは、以下のコンテンツを公開しましたのでご利用ください。

        聖書日課聖書の植物(完結)、モーセの十戒(更新中)、賛美歌カラオケ

 季節の変わり目にご健康も守られますようにお祈りしています。

モーセの十戒 第四戒



 モーセの十戒の第四の戒め、出エジプト20章8節をお読みします。
安息日を覚えて、これを聖とせよ。

 聖書の神は天地創造の神であり、秩序正しく創造の働きをなし、世界を完成させた後、働きを休まれました(創世記1~2章)。イスラエル人はこのことにならって、六日間の働きの後、七日目すなわち土曜日を安息日として神に礼拝をささげました(出エジプト20章9~10節)。クリスチャンはイスラエル人にならって、イエス・キリストが復活して救いの働きを完成させた日曜日に、教会に集まって礼拝をささげています。
 第四の戒めの「安息日を覚えて」とは、日々働く私たち人間に必要な休みを与えることであり、人間に健康的な生活を保障する戒めです(マタイ11章28節)。しかし、神は人間と同じように疲れて、休みが必要となる訳ではありません。むしろ、人が疲れて働けない時に、神は絶えず働かれて人間のために救いの奇跡を行われます(詩篇121篇4節)。
 また、安息日は休日であるとともに聖なる日であり、神の特別な祝福に与ることのできる日です(出エジプト20章11節)。ですから、私たちは安息日に神の救いの働きを求めて、人の働きを休ませて神を見上げる礼拝をささげたいと思います。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たち人間を休ませるため、また私たちを神の特別な祝福に与らせるために、安息日を与えてくださったことを感謝いたします。この安息日の精神を大切にして、私たちも共に教会に集まって礼拝をささげることができますように。礼拝の中で神の安息と祝福に与ることができますように。
 イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2022/10/22

讃美歌21・466「山路こえて」

1)山路こえて ひとり行けど
主の手にすがれる 身はやすけし

2)松のあらし 谷のながれ
みつかいの歌も かくやありなん

3)峯の雪と こころきよく
雲なきみ空と むねは澄(す)みぬ

4)道けわしく 行く手とおし
こころざすかたに いつか着くらん

5)されども主よ われ祈らじ
旅路のおわりの 近かれとは

6)日もくれなば 石のまくら
仮寝の夢にも み国しのばん

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2022/10/17

2022年10月23日の聖書日課

(写真:ギンモクセイ)

使徒14:8-17
 14:8 ところが、ルステラに足のきかない人が、すわっていた。彼は生れながらの足なえで、歩いた経験が全くなかった。
 14:9 この人がパウロの語るのを聞いていたが、パウロは彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認め、
 14:10 大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は踊り上がって歩き出した。
 14:11 群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ、ルカオニヤの地方語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫んだ。
 14:12 彼らはバルナバをゼウスと呼び、パウロはおもに語る人なので、彼をヘルメスと呼んだ。
 14:13 そして、郊外にあるゼウス神殿の祭司が、群衆と共に、ふたりに犠牲をささげようと思って、雄牛数頭と花輪とを門前に持ってきた。
 14:14 ふたりの使徒バルナバとパウロとは、これを聞いて自分の上着を引き裂き、群衆の中に飛び込んで行き、叫んで
 14:15 言った、「皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。
 14:16 神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、
 14:17 それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2022/10/16

モーセの十戒 第三戒



 モーセの十戒の第三の戒め、出エジプト20章7節をお読みします。
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。

 聖書の神は、自らを目に見える姿形ではなく、言葉による自己表現として名前を告げます(出エジプト3章14節)。他の神々は、人間の都合に合ったご利益をもたらす名前を、人間が名づけます。そして、神々は人間の名づけによって縛られ、その限界が定められてしまいます。聖書の神はこの第三の戒めにより、神が人間の支配に服することを拒んでいます。
 イスラエル人は、この第三の戒めを重く受け止めた結果、決して神の御名を口にすることがありません。しかし、私たちクリスチャンは、聖書により教えられた神の御名を、神を賛美し、神に祈る正しい目的のために唱えます(マタイ6章9節)。神は私たちのうちに神の霊を注がれたので、「アバ、父よ」と神を呼ぶことができます(ローマ8章15節)。真心からの感謝をもって父なる神を賛美し、喜びをもって神に祈りをささげましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちが賛美をささげ、祈りをささげることができるために、神の御名を教えてくださったことを感謝いたします。どうぞ私たちの心に正しい思いを、私たちの口に正しい、良い言葉を授けてください。そして、日ごとの私たちの賛美と祈りを受け入れてください。
 イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2022/10/15

讃美歌21・436「十字架の血に」

1)十字架の血に 救いあれば
きたれとの声を われは聞けり
(くりかえし)
主よ われは 今ぞ行く
十字架の血にて 清めたまえ

2)弱きわれも 御力を得
この身の汚れを みな拭われん
(くりかえし)

3)真心もて 切に祈る
心に満つるは 主の御恵み
(くりかえし)

4)ほむべきかな わが主の愛
ああ ほむべきかな わが主の愛
(くりかえし)

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について