(写真:ヒマワリ)
コリント第二1:17-22
1:17 この計画を立てたのは、軽率なことであったであろうか。それとも、自分の計画を肉の思いによって計画したため、わたしの「しかり、しかり」が同時に「否、否」であったのだろうか。
1:18 神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に「否」というようなものではない。
1:19 なぜなら、わたしたち、すなわち、わたしとシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり」となると同時に「否」となったのではない。そうではなく、「しかり」がイエスにおいて実現されたのである。
1:20 なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。
1:21 あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。
1:22 神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/08/16
2021/08/15
2021年8月15日3分メッセージ
マタイ6章13節をお読みします。
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
この言葉を文語体の「主の祈り」ではこう祈ります。「試みに会わせず、悪より救い出だしたまえ。」
「試み」と言われるものには、正しい目的によって行われて実力を見定めるものがあります。一方で、悪い目的を持った悪しき者によって試みられることがあります。その試みの目的は、悪い結果に引きずり込もうとして誘惑するものです。そのような試みは、人としての成長などの良い結果を望むことができません。
イエス・キリストは悪魔から試みられたことがあります(マタイ4章1~11節)。その試みは貪欲、名誉、富によるものでしたが、キリストはこれらの誘惑に関わることを一切拒まれました。
私たち人間は、様々な悪事や誘惑に手を染めている最中で、それらを克服するような力はありません。「剣ををとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26章52節)と言われているように、私たちは悪を克服するために悪に一切手をつけてはなりません(テサロニケ第一5章22節)。悪と関わりを持つことがないように、私たちも日々こう祈りましょう。「試みに会わせず、悪より救い出だしたまえ。」
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちを日々、様々な危険から守ってくださることを感謝いたします(詩篇91篇)。とりわけ私たちが悪の世界に入り込むことがないように、悪の試みから遠ざけて私たちをお救いください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/08/09
2021年8月15日の聖書日課
(写真:ミソハギ)
詩篇61:1-4
61:1 神よ、わたしの叫びを聞いてください。
わたしの祈に耳を傾けてください。
61:2 わが心のくずおれるとき、
わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。
わたしを導いて
わたしの及びがたいほどの高い岩に
のぼらせてください。
61:3 あなたはわたしの避け所、
敵に対する堅固なやぐらです。
61:4 わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ、
あなたの翼の陰にのがれさせてください。〔セラ
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
詩篇61:1-4
61:1 神よ、わたしの叫びを聞いてください。
わたしの祈に耳を傾けてください。
61:2 わが心のくずおれるとき、
わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。
わたしを導いて
わたしの及びがたいほどの高い岩に
のぼらせてください。
61:3 あなたはわたしの避け所、
敵に対する堅固なやぐらです。
61:4 わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ、
あなたの翼の陰にのがれさせてください。〔セラ
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/08/08
2021年8月8日3分メッセージ
マタイ6章12節をお読みします。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
主の祈りは、日ごとの食物(マタイ6章11節)のために祈った次に、負債のゆるしを求めて祈ります。
文語体の主の祈りでは、「われらの罪をゆるしたまえ」と祈ります。私たちは人に対して負い目や罪を負うことがありますが、神に対しても負い目や罪を負うことがあることを聖書は教えています。
負債を負うならば、償って清算しなければなりません。しかし、何らかの方法で償ったとしても、それで人間関係が完全に修復されるとは限りません。また例えば人の命のように、本質的には何物によっても償えないようなものもあります。罪というものは、大きなものでも小さなものでも、最終的に「ゆるし」がなければ解決できるものではありません。
私たち人間は、人生を長く歩み続けるうちに数多くの罪を負ってしまいます。ですから、主の祈りは日ごとの食物と同様に、日ごとの罪のゆるしが私たちに必要であることを教えています。イエス・キリストはこの私たちの罪のゆるしのために十字架にかかられたのです(ペテロ第一2章24節)。
キリストは私たちに語りかけます。「ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」(ルカ6章37節)主の教えに従って、すべての罪をゆるされた人生を歩んでまいりましょう。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちの人生には日ごとに罪のゆるしが必要です。どうぞ私たちの罪をおゆるしください。そして、私たちが罪から離れた生活を歩むことができますように、私たちを導いてください(ヨハネ8章11節)。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/08/02
2021年8月8日の聖書日課
(写真:ヤマユリ)
マタイ18:21-22
18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
18:22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
マタイ18:21-22
18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
18:22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/08/01
2021年8月1日3分メッセージ
マタイ6章11節をお読みします。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
昔から祈り継がれている文語体の「主の祈り」では、このように祈ります。「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。」この「日用」という言葉は、「日用品」の日用です。
主の祈りは「(神の)御名をあがめさせたまえ」と祈ることで、聖書の神が当然あがめられるべきであることを教えています。同じように、私たち人間は日ごとの食物がなければ生きていけないのは当然のことです。主の祈りは、身に余る贅沢ではなく、「なくてならぬ食物」(箴言30章8節)を祈り求めることが当然のことであり、そのように祈るように命じています。
また、この祈りは「きょう」一日だけに限定した祈りではありません。私たちは今日一日の糧を食べて、明日まで生きていきます。また明日も生きるために、今日一日を懸命に働きます。主の祈りは、明日に向かって生きていくための祈りです。
それで、イエス・キリストはこのように教えられました。「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6章34節)私たちは日ごとに主の祈りをささげつつ、明日を思い煩うことなく、今日を一生懸命に生きていきたいと思います。聖書の神は確かに私たちを養ってくださいます。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちは主の祈りをささげることを通して、神が私たちを顧みておられることを知ることができました。ですから、私たちは勇気をもって今日一日の生活の祝福を祈り求めます。明日へとつながる私たちの歩みを支えてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021年8月1日の聖書日課
(写真:ハス)
マタイ6:25-31
6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
6:26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
6:27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
マタイ6:25-31
6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
6:26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
6:27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
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