2021/08/08

2021年8月8日3分メッセージ



 マタイ6章12節をお読みします。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。


 主の祈りは、日ごとの食物(マタイ6章11節)のために祈った次に、負債のゆるしを求めて祈ります。
 文語体の主の祈りでは、「われらの罪をゆるしたまえ」と祈ります。私たちは人に対して負い目や罪を負うことがありますが、神に対しても負い目や罪を負うことがあることを聖書は教えています。
 負債を負うならば、償って清算しなければなりません。しかし、何らかの方法で償ったとしても、それで人間関係が完全に修復されるとは限りません。また例えば人の命のように、本質的には何物によっても償えないようなものもあります。罪というものは、大きなものでも小さなものでも、最終的に「ゆるし」がなければ解決できるものではありません。
 私たち人間は、人生を長く歩み続けるうちに数多くの罪を負ってしまいます。ですから、主の祈りは日ごとの食物と同様に、日ごとの罪のゆるしが私たちに必要であることを教えています。イエス・キリストはこの私たちの罪のゆるしのために十字架にかかられたのです(ペテロ第一2章24節)。
 キリストは私たちに語りかけます。「ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」(ルカ6章37節)主の教えに従って、すべての罪をゆるされた人生を歩んでまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの人生には日ごとに罪のゆるしが必要です。どうぞ私たちの罪をおゆるしください。そして、私たちが罪から離れた生活を歩むことができますように、私たちを導いてください(ヨハネ8章11節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/08/02

2021年8月8日の聖書日課

(写真:ヤマユリ)

マタイ18:21-22
 18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
 18:22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/08/01

2021年8月1日3分メッセージ



 マタイ6章11節をお読みします。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。


 昔から祈り継がれている文語体の「主の祈り」では、このように祈ります。「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。」この「日用」という言葉は、「日用品」の日用です。
 主の祈りは「(神の)御名をあがめさせたまえ」と祈ることで、聖書の神が当然あがめられるべきであることを教えています。同じように、私たち人間は日ごとの食物がなければ生きていけないのは当然のことです。主の祈りは、身に余る贅沢ではなく、「なくてならぬ食物」(箴言30章8節)を祈り求めることが当然のことであり、そのように祈るように命じています。
 また、この祈りは「きょう」一日だけに限定した祈りではありません。私たちは今日一日の糧を食べて、明日まで生きていきます。また明日も生きるために、今日一日を懸命に働きます。主の祈りは、明日に向かって生きていくための祈りです。
 それで、イエス・キリストはこのように教えられました。「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6章34節)私たちは日ごとに主の祈りをささげつつ、明日を思い煩うことなく、今日を一生懸命に生きていきたいと思います。聖書の神は確かに私たちを養ってくださいます。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは主の祈りをささげることを通して、神が私たちを顧みておられることを知ることができました。ですから、私たちは勇気をもって今日一日の生活の祝福を祈り求めます。明日へとつながる私たちの歩みを支えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021年8月1日の聖書日課

(写真:ハス)

マタイ6:25-31
 6:25 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
 6:26 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
 6:27 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
 6:28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
 6:29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
 6:30 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
 6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/07/25

2021年7月25日3分メッセージ



 マタイ6章10節をお読みします。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。


 天は、聖書の神がおられる所であり(マタイ6章9節)、そこで神のみこころのままに、神のわざが行われます。そして、神のわざのために天の使い、すなわち天使が仕えています(マタイ18章10節)。天は、地上に住む私たち人間の及びのつかない世界です。
 私たちが「神のみこころが行われますように」と祈る時、それは本来私たちの及びのつかない、天の神の領域の事柄について願い求めていることになります。それは私たちの個人的な願いが実現することではありません。ただ、神のみこころのままに、神の良きわざが行われることを祈ることしかできません。
 「主の祈り」は、神のみこころがその通りに行われることを願い求める祈りです。その願い求めている神のみこころが私たちの益となることを確信することこそ、クリスチャンの信仰です(ヘブル11章6節)。そして、天における神のみこころが、私たちの地上の世界にも実現することを「主の祈り」は祈り求めています。
 神の支配される天国の幸いが、私たちの住む地上にも実現しますように。そのような信仰をもって「主の祈り」を祈りましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。天において神のみこころを妨げるものは何もありません。同じ様に、私たちの住むこの地にも神のみこころが実現することを私たちは祈り求めます。神のみこころの実現のため、私たちを良きわざの担い手として用いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/07/19

2021年7月25日の聖書日課

(写真:サルビア)

詩篇103:20-22
 103:20 主の使たちよ、
そのみ言葉の声を聞いて、これを行う勇士たちよ、
主をほめまつれ。
 103:21 そのすべての万軍よ、
そのみこころを行うしもべたちよ、主をほめよ。
 103:22 主が造られたすべての物よ、
そのまつりごとの下にあるすべての所で、
主をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/07/18

2021年7月18日3分メッセージ



 マタイ6章10節をお読みします。
御国がきますように。


 主の祈りで言われている「御国」とは「神の国」を意味します。イエス・キリストはしばしば神の国について、また同じ意味で「天国」について語られました。
 御国を支配するのは聖書の神です。また御国はこの世に属するものではなく、天に属するものです(ヨハネ18章36節)。御国という言葉は、「神の支配の及ぶ所」をも意味します。
 キリストは「天国は近づいた」(マタイ4章17節)と語られ、「神の国を求めよ」と教えられました(マタイ6章33節)。そして、人が御国に与る幸いを「福音」と言って、御国について多くのことを教えられました(マタイ4章23節)。
 御国とこの世の国とは根本的に違うものです。しかし、神の御国がこの世に対して、神の良き力を発揮することをキリストは教えられました(コリント第一4章20節)。すなわち、キリストの「神の国を求めよ」という言葉は、神を信じる者のために働く神の力を求めることを意味します。
 聖書の神は、主の祈りを信仰をもって祈る者に大きな力をもって報いられます。神の支配に服従する者に与えられる神の幸いが皆様のものとなりますように。
 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストは神の国が良き力を伴って近づいていると教えられました。私たちは神の良き力に与るべく、御国が私たちのところに来られることを求めて祈ります。私たちのうちに神の良き国が建て上げられますように(エペソ4章12、13節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)