2021/02/14

2021年2月14日3分メッセージ



 使徒12章11節をお読みします。
その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。

 キリスト教の歴史は、宣教と迫害の歴史です。その歴史はイエス・キリストによる福音宣教に始まり、迫害の末、十字架の死によって終わったかのように見えました。しかし、キリストの教会による宣教活動は今日まで絶えることなく続いています。またキリスト教に対する迫害も今日、世界中で絶えず続いています。
 キリストの直弟子であるペテロたちが生きる時代、彼らは至る所で巻き起こる迫害にひるむことなく、キリストの福音を宣べ伝えていました。すると、イスラエルの王ヘロデは十二弟子の一人であるヤコブを殺し(使徒12章2節)、続いてペテロを捕らえました。
 その時、教会の人々はともに集まって祈り始めました(使徒12章5節)。彼らがなしうることは、ただ祈りだけだったのです。彼ら自身も迫害の中にあって、抵抗するすべは一切持っていませんでした。
 しかし、聖書の神はクリスチャンの祈りに応えられました。人手によらず、ペテロは神の手によって牢獄から救い出されました。ペテロ自身も初めその出来事を夢か幻かのように思い(使徒12章9節)、祈りの中にいた教会の人々もペテロの救出をすぐに信じることができませんでした(使徒12章15節)。
 聖書の神の救いは、私たち人間の想像を遥かに超えることをなしうる、力強いものです。「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18章27節)この信仰を私たちも持ちたいと思います。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは自分の手に余るような困難な出来事に対して、祈ることしかできない者であることを認めます。どうぞ私たちの祈りを聞き届けてくださり、神にしかなしえぬ大いなる救いを成し遂げてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/02/08

2021年2月14日の聖書日課

(写真:ヒマラヤユキノシタ)

使徒12:11-17
 12:11 その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。
 12:12 ペテロはこうとわかってから、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。
 12:13 彼が門の戸をたたいたところ、ロダという女中が取次ぎに出てきたが、
 12:14 ペテロの声だとわかると、喜びのあまり、門をあけもしないで家に駆け込み、ペテロが門口に立っていると報告した。
 12:15 人々は「あなたは気が狂っている」と言ったが、彼女は自分の言うことに間違いはないと、言い張った。そこで彼らは「それでは、ペテロの御使だろう」と言った。
 12:16 しかし、ペテロが門をたたきつづけるので、彼らがあけると、そこにペテロがいたのを見て驚いた。
 12:17 ペテロは手を振って彼らを静め、主が獄から彼を連れ出して下さった次第を説明し、「このことを、ヤコブやほかの兄弟たちに伝えて下さい」と言い残して、どこかほかの所へ出て行った。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/02/07

2021年2月7日3分メッセージ



 詩篇103篇2節をお読みします。
わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。

 詩篇103篇は、神をほめたたえる賛美歌です。歌い手は「わがうちなるすべてのもの」(詩篇103篇1節)に向けて、神がなされたすべての恵みのみわざを覚えて、神をほめたたえるようにと何度も呼びかけています。
 この神の「すべてのめぐみ」について、多くの出来事を挙げています。それらの中には、生きるかぎり良き物が与えられる(詩篇103篇5節)というようなことだけではありません。神の恵みの中には、ゆるしや病のいやし(詩篇103篇3節)も含まれています。
 聖書の言葉に、「すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ第一5章18節)というものがあります。この言葉は、感謝できる状況ではうなずけるでしょうし、感謝できない状況では素直に聞き従えるものではないと思います。しかし、聖書の神は「すべての事について感謝してほしい」と私たちに願われます。それは、すべての状況において神は私たちのために救いのわざをなすことを願われているからです。
 同じような意味で、詩篇103篇は私たちに神をほめたたえることを呼びかけています。「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。」(伝道7章14節)と聖書は私たちに教えています。逆境の日にこそ、私たちは神の「いつくしみとあわれみ」(詩篇103篇4節)が必要です。恵み深い神をほめたたえましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。しえたげられている者に恵みを注がれることのために、御名をほめたたえます。私たちは毎日の生活の中で与えられる良き物のために、御名をほめたたえます。また毎日の苦しい状況の中に救いの御手を伸べてくださることを信じて祈り求めます。救いを成し遂げてくださることのために、御名をほめたたえます。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/02/01

2021年2月7日の聖書日課

(写真:セツブンソウ)

詩篇103:1-13
 103:1 わがたましいよ、主をほめよ。
わがうちなるすべてのものよ、
その聖なるみ名をほめよ。
 103:2 わがたましいよ、主をほめよ。
そのすべてのめぐみを心にとめよ。
 103:3 主はあなたのすべての不義をゆるし、
あなたのすべての病をいやし、
 103:4 あなたのいのちを墓からあがないいだし、
いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、
 103:5 あなたの生きながらえるかぎり、
良き物をもってあなたを飽き足らせられる。
こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。
 103:6 主はすべてしえたげられる者のために
正義と公正とを行われる。
 103:7 主はおのれの道をモーセに知らせ、
おのれのしわざをイスラエルの人々に知らせられた。
 103:8 主はあわれみに富み、めぐみふかく、
怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。
 103:9 主は常に責めることをせず、
また、とこしえに怒りをいだかれない。
 103:10 主はわれらの罪にしたがってわれらをあしらわず、
われらの不義にしたがって報いられない。
 103:11 天が地よりも高いように、
主がおのれを恐れる者に賜わるいつくしみは大きい、
 103:12 東が西から遠いように、
主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる。
 103:13 父がその子供をあわれむように、
主はおのれを恐れる者をあわれまれる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/01/31

2021年1月31日3分メッセージ



 テモテ第一4章8節をお読みします。
からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。

 聖書はここで、「信心のための訓練」をすることを勧めています。
 信心とは「信じる心」と書きますが、この言葉で聖書が意味しているのは、人が何ものかを堅く信じる「信念」とは違います。この信心は「信仰」や「敬虔」という言葉に置き換えることができます。信心は聖書の神から与えられるものであり(ペテロ第二1章3節)、さらに深い信心を得るために追い求めるべきものです(テモテ第一6章11節)。
 信心は人間に生まれつき備わっているものではなく、からだの訓練のように努力して獲得していくものです。そして、信心の獲得のために役立つのが「信仰の言葉」(テモテ第一4章6節)である聖書です。からだを作り上げるために必要な栄養素があるように、心を作り上げ、心を養うために、私たちは聖書を読むことが必要です(ペテロ第一2章2節)。
 そのようにして私たちが信心を獲得することができたなら、私たちは信心深い生活に伴う神のいのちに満たされることができます。神は私たちに来世のいのちだけでなく、今を生きるいのちを豊かに祝福してくださいます。
 この聖句の著者であるパウロは、信心の訓練についてしばしばスポーツの例えを用いています(テモテ第一6章12節)。具体的に私たちがすべきことは、聖書のことばを「そのまま受けいれる」ことです(テモテ第一4章9節)。私たちは神の子どもとして、父なる神の御言葉を素直に受け入れて、御言葉に学んでまいりましょう(エペソ5章1節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今日、私たちは神様を信じる信心も、神様からの贈り物であることを知りました。時々、私たちも信じて生きることの難しさを覚えることがあります。どうぞ私たちの信心を強めるため、私たちに御言葉を与えてください。御言葉とともに、困難な今の時代を生きる命も豊かに与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/01/25

2021年1月31日の聖書日課

(写真:ジャノメエリカ)

第一テモテ4:7-16
 4:7 しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい。
 4:8 からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。
 4:9 これは確実で、そのまま受けいれるに足る言葉である。
 4:10 わたしたちは、このために労し苦しんでいる。それは、すべての人の救主、特に信じる者たちの救主なる生ける神に、望みを置いてきたからである。
 4:11 これらの事を命じ、また教えなさい。
 4:12 あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範になりなさい。
 4:13 わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。
 4:14 長老の按手を受けた時、預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、軽視してはならない。
 4:15 すべての事にあなたの進歩があらわれるため、これらの事を実行し、それを励みなさい。
 4:16 自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/01/24

2021年1月24日3分メッセージ



 イザヤ9章2節をお読みします。
暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。

 聖書は読む人の心を映す鏡です。聖書は、聖なる神の言葉を伝えるだけでなく、この世の人間の言葉や生き様を生々しく記しています。聖書を読む時、私たちは神や人々の言葉を耳にして、自らの心が探られる体験をします。
 イザヤ書の8章と9章は、預言者イザヤが生きた時代のイスラエルの社会のやみを暴き出しています。そこには、しえたげがあり、飢えの苦しみ、怒りがあり、そのことのためにイスラエルの人々は王と神とを呪いました(イザヤ8章21節)。
 このイスラエルのやみに対して、私たちは何を見出すでしょうか。これらの出来事は現代に生きる私たちの社会と全く関係のないことでしょうか。
 この暗やみの世界に生きる預言者は、やみの中から大いなる光を見出しました。光はまだ遠くにありましたが、暗やみの中に生きる人々は光に希望を見出しました。
 この光が、聖書の神が約束する救いを意味します。未だ世界がやみに覆われていても、夜明けとともに光はやみを追い払います。その事を思って、人々は光を見て大喜びしたのでした(イザヤ9章3節)。
 「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネ1章5節)未だ問題解決が見出だせない現代の世界にあって、私たちも神の大いなる光を求めて祈りましょう。聖書の神様は、熱い心で私たちのために救いを成し遂げてくださいます(イザヤ9章7節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。確実な解決の見出だせない今の時代にあって、私たちは神の救いの光を求めています。どうか私たちの世界に、私たちの心に光を与えてください。私たちの世界に希望の光を投じてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)