2020/05/03

2020年5月3日(日) 礼拝ガイド


説教(せっきょう)「こはベウラの()なれば」
イザヤ62:1-5(お()ちの聖書(せいしょ)をお()みください)

 新聖歌(しんせいか)347(ばん)(けが)れしこの()の」の歌詞(かし)に、「こはベウラの()なれば」との一節(いっせつ)があります。「ベウラ」とは、イザヤ62:4の「(おっと)のある((めと)られた)」を意味(いみ)するヘブル()です。
 今日(きょう)聖書(せいしょ)箇所(かしょ)は、(かみ)(たみ)が「ベウラ」と()ばれるようになると(かた)っています。「ベウラ」が意味(いみ)するところを(ただ)しく()るためには、古代(こだい)イスラエルの人々(ひとびと)生活(せいかつ)から(かんが)えなければなりません。ですが、今回(こんかい)(はなし)(みじか)くしましょう。
 「ベウラ」とは、「見捨(みす)てられている」ことや「()()てている」ことの反対(はんたい)です(4(せつ))。つまり、(かみ)(たみ)である(わたし)たちクリスチャンは、「(かみ)()つけ()された(もの)」であり、「(かみ)祝福(しゅくふく)されて(ゆた)かである(もの)」と()ばれるのだ、ということです。
 (じつ)は、「ベウラ」と()ばれる(まえ)のイスラエルは、「見捨(みす)てられ、()()てた」と()ばれるような不幸(ふこう)(もの)であったのです。(みな)さんは、「()()てている」と()われるのと、「(ゆた)かである」と()われるのでは、(いま)自分(じぶん)のこととしてどちらがしっくり()るでしょうか。
 いずれにしても、今日(きょう)御言葉(みことば)は「あなたは、(しゅ)(くち)()づける(あたら)しい()()ばれよう」(2(せつ))と(かた)りかけています。神様(かみさま)(わたし)たちに(たい)し、(わたし)たちが(おも)いもよらなかったような「(あたら)しい()」で、つまり神様(かみさま)祝福(しゅくふく)()ちた名前(なまえ)()ばれるのです。
 また、その(あたら)しい名前(なまえ)は「()ばかり」ではありません。神様(かみさま)(わたし)たちを(あたら)しい名前(なまえ)()ばれるとき、(わたし)たちは(まわ)りの人々(ひとびと)からもはっきりとわかるように、(あたら)しく()えられます。人々(ひとびと)(わたし)たちを()て、「()(ただ)しさ)」と「栄光(えいこう)(さかえ)」を(みと)めるようになるのです。
 そのような()栄光(えいこう)(わたし)のうちにはない、と(おも)われるかもしれません。(たし)かにそれは(わたし)たちが元々(もともと)()っていたものではありません。それは神様(かみさま)が、イエス・キリストを(しん)じる(わたし)たちに(あたら)しく(あた)えてくださったものです。(わたし)たちが「世界(せかい)(ひかり)」(マタイ5:14)として(かがや)くために、神様(かみさま)(やす)むことなく、(だま)ることもなく、(わたし)たちを御言葉(みことば)によって(おし)え、(つく)()えてくださるのです(1(せつ))。
 神様(かみさま)(わたし)たちを「花嫁(はなよめ)」として()ておられ、(わたし)たちのことを(よろこ)ばれます(5(せつ))。そして、(わたし)たちを()栄光(えいこう)によって(かざ)り、(かんむり)のように(たか)()()げられます(3(せつ))。(わたし)たちは神様(かみさま)(あた)えてくださるものを素直(すなお)()()りましょう。
また、(わたし)たちは神様(かみさま)から(いただ)いた祝福(しゅくふく)言葉(ことば)によって、お(たが)いに祝福(しゅくふく)()いましょう。「あなたがたの兄弟(きょうだい)には、『わたしの(たみ)』と()い、あなたがたの姉妹(しまい)には、『(あい)される(もの)』と()え。」(ホセア2:1)

(引用:聖書 新改訳 (c)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2020/05/01

2020年5月3日の聖書日課

(写真:ヤマブキ)

イザヤ62:1-5
 62:1 シオンの義が
朝日の輝きのようにあらわれいで、
エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、
わたしはシオンのために黙せず、
エルサレムのために休まない。
 62:2 もろもろの国はあなたの義を見、
もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。
そして、あなたは主の口が定められる
新しい名をもってとなえられる。
 62:3 また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、
あなたの神の手にある王の冠となる。
 62:4 あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、
あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、
あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、
あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。
主はあなたを喜ばれ、
あなたの地は配偶を得るからである。
 62:5 若い者が処女をめとるように
あなたの子らはあなたをめとり、
花婿が花嫁を喜ぶように
あなたの神はあなたを喜ばれる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/04/26

2020年4月26日3分メッセージ



 ヨハネ21章12節をお読みします。
イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。

 ヨハネ21章では、イエス・キリストと彼の弟子たちとの暖かい交流の情景が描かれています。一見したところ、何気ない日常の風景と見えなくもありません。ですが、弟子たちにとっては、言葉に表し切れないような深い意味をもった出来事でした。
 その日の前夜の事、弟子たちの多くは魚をとる漁師だったので、彼らは生活のために漁に出ました。しかし、夜通し漁をしても、魚は一匹もとれませんでした(3節)。
 夜が明けたころ、彼らの先生であるキリストが岸辺に立っていました。しかし、不思議なことに弟子たちはその人が先生であることに気がつきませんでした(4節)。それには訳があります。この時、キリストは十字架の死、および三日目の復活の後であったからです。
 キリストの復活を意味するイースターの後、キリストは以前と同じように弟子たちと生活を共にすることはなくなりました。しかし、弟子たちが助けを必要とする時に、キリストは彼らの前に姿を現しました。
 その後、弟子たちは多くの魚がとれる奇跡を見て、その人がキリストであることに気がつきました(6、7節)。ですが、それよりも、懐かしい先生との一緒の食事に、彼らは大変力づけられたはずです(9~13節)。
 今日の私たちクリスチャンにとっても、キリストはそれと同じような関係にあるのだと思います。イエス・キリストは私たちが一番必要とする時に、一緒にいて力づけてくださるお方です。キリストはこう言って約束しておられます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章20節)。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは一人であっても、多くの人々と一緒であっても、支えられることを求めて心細くなる時があります。そのような時、「いつも共にいる」と言われるキリストの約束の通り、私たちを支え、励ましてくださいますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年4月26日(日) 礼拝ガイド


説教(せっきょう)「さあ()て、食事(しょくじ)をしなさい」
ヨハネ21:3-13(お()ちの聖書(せいしょ)をお()みください)

 2020(ねん)のイースターから2週間(しゅうかん)()ちました。(わたし)たちの毎日(まいにち)生活(せいかつ)には()くなる(きざ)しが()えません。それはまるで、イエス(さま)復活(ふっかつ)されたという事実(じじつ)()りながらも、この(さき)どうなっていくかがわからず、(おそ)(まど)っている(しゅ)弟子(でし)たちの気持(きも)ちと(おな)じです。
 そのような時期(じき)に、弟子(でし)たちはガリラヤ()(さかな)をとっていました。この弟子(でし)たちの姿(すがた)(みな)さんもいろいろと(かん)じるところがあると(おも)います。ですが、(しゅ)弟子(でし)たちをどのように(おも)われたでしょうか?今日(きょう)はヨハネ21(しょう)御言葉(みことば)()んで、(しゅ)弟子(でし)たちにどのようになさったのかを()りましょう。そして、(しゅ)今日(こんにち)(わたし)たちにも(おな)じようになされることを(おも)って、御言葉(みことば)(みみ)(かたむ)けてまいりましょう。
 弟子(でし)たちが(りょう)をしていた理由(りゆう)は、(なに)よりも生活(せいかつ)のためでした。(かれ)らのうちの(おお)くはガリラヤの漁師(りょうし)でしたので、(かれ)らにとって(りょう)とは特別(とくべつ)なことではなく、()たり(まえ)のことでした。しかし、(りょう)をしたにも(かか)わらず(さかな)がとれなかったのは当前(とうぜん)なことではありませんでした。夜通(よどお)(はたら)いた(かれ)らは、心身(しんしん)ともに(こた)えたことでしょう(3(せつ))。
 そこに、(しゅ)がやさしく(こえ)をかけられ、大漁(たいりょう)奇跡(きせき)(あら)わされたのです(4~6(せつ))。弟子(でし)たちの(おどろ)きは、どれほど(おお)きかったことでしょう。また、(しゅ)弟子(でし)たちに()けられた(あわれ)みと(めぐ)みの(おお)きさはどれほどであったか、(わたし)たちもじっくりと(あじ)わってみるべきです。
 さらに、(しゅ)がなされた「大漁(たいりょう)(きせき)」は、弟子(でし)たちにとっても、今日(こんにち)(わたし)たちクリスチャンにとっても、特別(とくべつ)意味(いみ)があります。それは、ペテロたち、(しゅ)最初(さいしょ)弟子(でし)たちは「人間(にんげん)をとる漁師(りょうし)」として(しゅ)()()された(もの)であるからです(ルカ5:1-11)。(かれ)らは大漁(たいりょう)奇跡(きせき)()て、(しゅ)だとわかったと同時(どうじ)に、(しゅ)最初(さいしょ)出会(であ)った(とき)のことも(なつ)かしく(おも)()したに(ちが)いありません。
 また、弟子(でし)たちにとって、(なつ)かしい(しゅ)一緒(いっしょ)食事(しょくじ)ができたことは、よりいっそう(おお)きな(はげ)ましとなったことでしょう。(かれ)らは言葉(ことば)(すく)なく、(しゅ)がいつものように()けてくださったパンと(さかな)()べ(13(せつ))、(からだ)(こころ)()たされ、(いや)されたのです。
 (しゅ)復活(ふっかつ)見届(みとど)けた弟子(でし)たちに必要(ひつよう)なのは、休息(きゅうそく)食事(しょくじ)(はげ)ましでした。(しゅ)弟子(でし)たちの必要(ひつよう)をよく()られて、(かれ)らに(ちか)づかれ、(かれ)らの必要(ひつよう)十分(じゅうぶん)()たされました。今日(こんにち)(わたし)たちクリスチャンにも(しゅ)(おな)じようにしてくださいます。
 (しゅ)はこのように()って約束(やくそく)してくださいました。「()よ。わたしは、()()わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)今日(きょう)(わたし)たちは(しゅ)御約束(みやくそく)感謝(かんしゃ)して(いの)りましょう。そして、(しゅ)約束(やくそく)してくださった聖霊(せいれい)(もと)めて(いの)(つづ)けましょう(ヨハネ20:22)。

(引用:聖書 新改訳 (c)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)