説教「こはベウラの地なれば」
イザヤ62:1-5(お持ちの聖書をお読みください)
新聖歌347番「汚れしこの世の」の歌詞に、「こはベウラの地なれば」との一節があります。「ベウラ」とは、イザヤ62:4の「夫のある(娶られた)」を意味するヘブル語です。
今日の聖書箇所は、神の民が「ベウラ」と呼ばれるようになると語っています。「ベウラ」が意味するところを正しく知るためには、古代イスラエルの人々の生活から考えなければなりません。ですが、今回は話を短くしましょう。
「ベウラ」とは、「見捨てられている」ことや「荒れ果てている」ことの反対です(4節)。つまり、神の民である私たちクリスチャンは、「神に見つけ出された者」であり、「神に祝福されて豊かである者」と呼ばれるのだ、ということです。
実は、「ベウラ」と呼ばれる前のイスラエルは、「見捨てられ、荒れ果てた」と呼ばれるような不幸な者であったのです。皆さんは、「荒れ果てている」と言われるのと、「豊かである」と言われるのでは、今の自分のこととしてどちらがしっくり来るでしょうか。
いずれにしても、今日の御言葉は「あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう」(2節)と語りかけています。神様は私たちに対し、私たちが思いもよらなかったような「新しい名」で、つまり神様の祝福に満ちた名前で呼ばれるのです。
また、その新しい名前は「名ばかり」ではありません。神様が私たちを新しい名前で呼ばれるとき、私たちは周りの人々からもはっきりとわかるように、新しく変えられます。人々が私たちを見て、「義(正しさ)」と「栄光(さかえ)」を認めるようになるのです。
そのような義や栄光は私のうちにはない、と思われるかもしれません。確かにそれは私たちが元々持っていたものではありません。それは神様が、イエス・キリストを信じる私たちに新しく与えてくださったものです。私たちが「世界の光」(マタイ5:14)として輝くために、神様は休むことなく、黙ることもなく、私たちを御言葉によって教え、作り変えてくださるのです(1節)。
神様は私たちを「花嫁」として見ておられ、私たちのことを喜ばれます(5節)。そして、私たちを義と栄光によって飾り、冠のように高く引き上げられます(3節)。私たちは神様が与えてくださるものを素直に受け取りましょう。
また、私たちは神様から頂いた祝福の言葉によって、お互いに祝福し合いましょう。「あなたがたの兄弟には、『わたしの民』と言い、あなたがたの姉妹には、『愛される者』と言え。」(ホセア2:1)
(引用:聖書 新改訳 (c)1970,1978,2003
新日本聖書刊行会)