(写真:フクジュソウ)
エペソ5:6-14
5:6 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
5:7 だから、彼らの仲間になってはいけない。
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい――
5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである――
5:10 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
5:11 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、
「眠っている者よ、起きなさい。
死人のなかから、立ち上がりなさい。
そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020/03/01
2020年3月1日3分メッセージ
マタイ4章3節、4節をお読みします。
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
イエス・キリストは四十日の間、食事を断って祈りに専念しました。その後、空腹を覚えたキリストの所に悪魔がやって来て、こう言って試みました。「あなたの神の子の力で、石をパンに変えてみなさい。」
この言葉は空腹の体には強い誘惑となったことでしょう。私たちクリスチャンは、キリストが神の子であるという信仰を持っています。またキリストが教えられた「主の祈り」にも、「日ごとの食物を与えてください」という言葉があります(マタイ6章11節)。クリスチャンは、毎日の生活の必要を神が与えてくださることを信じて祈っています。
ですから、食物を求めて神に祈ることは悪い事ではありません。しかし、キリストは「石をパンに変える」ために神の力を用いることを拒否しました。その事は、神の前に謙遜になって求めるという、祈りの本質にそぐわないことであるからです。
キリストは悪魔の神に対する不遜な言葉を退けました。人は食物があれば十分ではなく、神の言葉を食べなければなりません。すなわち、神から折にかなった助けを得ることのできる、正しい祈りの姿勢を身につけなければならないということです。
聖書には、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とあります(ヤコブ4章6節)。キリストの言葉と生き様から、私たちは神に受け入れられる正しい祈りの心を学びたいと思います。
お祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たち人間は弱さを覚える時、不思議と神に祈りをささげる者です。その時、私たちが正しく神の前にへりくだり、神に従う心をもって祈りをささげることができますように。御言葉の約束通り、天からの恵みをお与えください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020年3月1日の聖書日課
(写真:カワヅザクラ)
マタイ4:1-11
4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
4:5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
4:6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。
4:7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
4:11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
マタイ4:1-11
4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
4:5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
4:6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、
あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。
4:7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
4:11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020/02/26
2020年2月26日(水) 感染症予防対策
世界的な感染症流行の早期終息を祈りつつ、志村教会でも予防対策を始めました。定例集会は休みませんが、最低限の消毒を実施し、集会中もマスクをしたままで出席することを可としています。皆様も外出後の手洗い・うがい等を心がけて下さい。次回の集会は3月1日(日)の主日礼拝です。(イラストは「いらすとや」のフリー素材を利用しました。)
2020/02/23
2020年2月23日3分メッセージ
ピリピ4章17節をお読みします。
わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。
教会の活動は他の社会活動、特に会社の経営と同じ側面と違う側面があります。違う側面の一つとして、教会は基本的にはサービスの売上金ではなく、自発的な献金によって運営されることが挙げられます。
売上金は商品の対価として得られるものですが、献金は特定の見返りとなるものがある訳ではありません。それは献金したいと思う人の個人的な意思に基づくものです。そのような献金の性格は、教会が歴史上、先駆的に行ってきた慈善事業が必ずしも見返りを求めて行われてきた訳ではないことにも表れています。
しかし、教会の活動が献金により維持されていることは事実です。ピリピ書でも、「勘定」や「果実」というような経営用語が用いられています。ですが、教会が求めている「果実」とは献金という事実そのものではありません。むしろ本当に求めているのは「心」であり(ピリピ4章10節)、「患難を共にする」ことであり(同14節)、「神にささげられる芳しい香り」です(同18節)。
私たち人間が日々手にしている「物」には、必ず人の「心」が込められています。非常に高価な物に、「憎しみ」や「欲望」や「冷酷さ」というような心が込められているかもしれません。人間を本当の意味で人間らしく生かすのは「愛する心」です(ピリピ4章8節)。私たちは本当に大切な心を失うことなく、愛の心をもって教会に集まりたいと思います。
お祈りいたしましょう。
天の父なる神様。世の中で生きる私たちは、忙しさのあまり大切な愛の心を失ってしまうことがあります。教会の中にあっても、真の愛の心を失うことがありませんように。私たちのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さいますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020/02/16
2020年2月23日の聖書日課
(写真:マンサク)
ピリピ4:10-13
4:10 さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。
4:11 わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
4:12 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
4:13 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
ピリピ4:10-13
4:10 さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。
4:11 わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
4:12 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
4:13 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020年2月16日3分メッセージ
ヨブ23章10節をお読みします。
しかし彼(神)はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、わたしは金のように出て来るであろう。
ヨブは聖書の神を畏れ敬う、正しい人でした(ヨブ1章1節)。しかし、ヨブは度重なる災難に遭い、財産を失い、家族を失い、健康をも失ってしまいました。ヨブの三人の友人は彼を慰めるために集まってきましたが、想像を超えるようなヨブの苦しみを見て、慰めの言葉を失ってしまいました(ヨブ2章13節)。
その後、口を開いたのはヨブでしたが、その言葉は自らの災難のゆえにつぶやいた、嘆きと呪いの言葉でした(ヨブ3章1節)。神を汚すような言葉は言いませんでしたが、ヨブの心には揺るぎない信仰や平安といったものは消え失せていました。しかし、それでもヨブが語った言葉は、神の救いへの希望が含まれていました。
長い長い問答の後、ヨブが幸いな結末に至ったことがヨブ記の最後に記されています(ヨブ42章)。そこに至るまで、ヨブの言葉には一見救いがないようにも思えます。しかし、神は彼の言葉を聞いていなかったのではなく、聞き続けておられたのです。
聖書の神は私たちが祈る祈りの言葉、その祈りの心をも確かに知って下さるお方です。たとえヨブのように絶望の淵に立たされた時にも、神は私たちの救われたいという心からの願いを聞き取って下さるお方です。
今日も皆様のためにお祈りをさせていただきます。
天の父なる神様。たとえヨブのように正しい人であっても、私たちは試練に遭う日には祈りの言葉さえ出て来ないことがあります。しかし、神は私たちを金を求めるように探し出されます。どうか私たちの心の底にある切なる祈りに応えて下さい。来る日に私たちが神の中に救いを見出だすことができますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
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