2020/10/19
2020年10月25日の聖書日課
黙示録21:1-4
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020/10/18
2020年10月18日3分メッセージ
詩篇34篇18節、19節をお読みします。
主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。
聖書の神は、私たち人間に正しい生き方を教える「主」として私たちを導かれます。しかし、正しい生き方をすれば悩み事が消えてなくなる訳ではありません。むしろ、正しい生き方をしたことが原因となって、災いが降ってくるような体験をすることがあります。
聖書は、まさにそのような悩みを抱えている人にこう言って励ましています。「正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。」(詩篇34篇19節)
私たちは、周りの人々との間に角が立つことを恐れて、あえてなすべき正しい事を行わないことがあるかもしれません。あるいは、そのことで自分の心が傷ついてしまうことを恐れているのかもしれません。
確かに、聖書の教える正しい生き方に従って生きる時、私たちの心が砕かれてしまうこともあるでしょう。しかし、それでも聖書は、「悪を離れて善を行いなさい」と私たちに勧めています(詩篇34篇14節)。なぜなら、「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる」のだからです(詩篇34篇18節)。
聖書の神は、私たちの傷ついた心を癒し、私たちの最も大事なところを守ってくださるお方です(詩篇34篇20節)。私たちの命を守り、幸いで満たしてくださる神に従ってまいりましょう(詩篇34篇22節)。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちの心は深く傷ついています。しかし、心の砕けた者の近くに来てくださって、癒してくださる神様に身も心もお任せします。どうぞ私たちをあらゆる災いから助け出してくださり、神様が示される正しい道を歩むことができますよう、私たちをお導きください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020/10/12
2020年10月18日の聖書日課
詩篇34:15-22
34:15 主の目は正しい人をかえりみ、
その耳は彼らの叫びに傾く。
34:16 主のみ顔は悪を行う者にむかい、
その記憶を地から断ち滅ぼされる。
34:17 正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、
彼らをそのすべての悩みから助け出される。
34:18 主は心の砕けた者に近く、
たましいの悔いくずおれた者を救われる。
34:19 正しい者には災が多い。
しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。
34:20 主は彼の骨をことごとく守られる。
その一つだに折られることはない。
34:21 悪は悪しき者を殺す。
正しい者を憎む者は罪に定められる。
34:22 主はそのしもべらの命をあがなわれる。
主に寄り頼む者はひとりだに
罪に定められることはない。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020/10/11
2020年10月11日3分メッセージ
コリント第二5章4節をお読みします。
この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
この聖句で言われている「幕屋」とは、移動式の住居であるテントを意味します。パウロはこの言葉で、人間の体のことを簡単に壊れてしまうテントにたとえています。
テントも人間の体も、不具合が起きたら直すことができますが、それでも永遠に使い続けることはできません。しかし、人間として生きていくためには、不具合の起きた体を捨てるわけにはいかず、だましだまし使い続けていかなければなりません。そのことは、私たちにとって重荷であり、苦しみであるかもしれません。
キリスト教の約束する救いは、まさにこの人間の体の苦しみの声に応えるものです。聖書の神は、人間のために壊れることのない堅固な建物、永遠の家を備えておられます(コリント第二5章1節)。それは、イエス・キリストを信じる者のために備えられている、天のすまいです(ヨハネ14章1~3節)。
キリストを信じる時、私たちは自分を失ってしまうのではありません。そうではなく、私たちの人間としての弱さが、天から下ってくる神の力によって覆われて、神から頂く新しい命に満ちあふれることになるのです。私たちも神を見上げて、命にあふれた神の力を身にまといたいと思います。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちの毎日の生活には疲れることも、くたびれてしまうこともあります。その時、私たちの弱さに目を留めるのではなく、私たちの弱さを覆う、神の力に目を留め続けることができますように。天からの命によって私たちを満たしてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020/10/05
2020年10月11日の聖書日課
コリント第二5:1-10
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020/10/04
2020年10月4日3分メッセージ
ヨハネ10章30節、31節をお読みします。
「わたしと父とは一つである」。そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。
イエス・キリストは聖書の神を「父」と呼んで、「わたしと父とは一つである」と言いましたが、それを聞いた人々はキリストに殺意を覚えて、石を取りあげました。
それほどまでに感情的になった彼ら、ユダヤ人たちは聖書の神を信仰する「聖書の民」でした。彼らにとって、キリストの言葉は自らを神と同列において、神を汚していると考えたのです(ヨハネ10章33節)。
しかし、キリストは自らが神であると言ったのではなく、「父なる神と一つである」と言いました。その意味は、キリストが父なる神の心を知っていて、言葉とわざにおいて神の御心と一致していることを示しています(ヨハネ10章15節)。
そして、このことはキリストだけに当てはまることではなく、私たちも「神と一つとなる」ことができることを示しています。そのために、キリストは私たちに神の御心を教え、神の特別な祝福を受けた「神の民」として、私たちを導かれます(ヨハネ10章16節)。
キリストは言葉だけではなく、わざによって神の御心を教えられます。イエス・キリストは私たちの祈りに応えてくださり、私たちにわかる形で神の真理を示されます(ヨハネ14章6節)。
皆様の生涯にも、父なる神の良き御業が示されますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。イエス・キリストは私たちに、「父による多くのよいわざを、あなたがたに示した」と語られました(ヨハネ10章32節)。その御言葉の通り、聖書の神が私たちの父であられ、私たちが神の守りの中を歩むことができますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020/10/01
2020年10月4日の聖書日課
(写真:コスモス)
ヨハネ10:31-42
10:31 そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。
10:32 するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか」。
10:33 ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。
10:34 イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。
10:35 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
10:36 父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。
10:37 もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。
10:38 しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。
10:39 そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。
10:40 さて、イエスはまたヨルダンの向こう岸、すなわち、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行き、そこに滞在しておられた。
10:41 多くの人々がイエスのところにきて、互に言った、「ヨハネはなんのしるしも行わなかったが、ヨハネがこのかたについて言ったことは、皆ほんとうであった」。
10:42 そして、そこで多くの者がイエスを信じた。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)