(写真:ヤマブキ)
イザヤ62:1-5
62:1 シオンの義が
朝日の輝きのようにあらわれいで、
エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、
わたしはシオンのために黙せず、
エルサレムのために休まない。
62:2 もろもろの国はあなたの義を見、
もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。
そして、あなたは主の口が定められる
新しい名をもってとなえられる。
62:3 また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、
あなたの神の手にある王の冠となる。
62:4 あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、
あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、
あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、
あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。
主はあなたを喜ばれ、
あなたの地は配偶を得るからである。
62:5 若い者が処女をめとるように
あなたの子らはあなたをめとり、
花婿が花嫁を喜ぶように
あなたの神はあなたを喜ばれる。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020/05/01
2020/04/26
2020年4月26日3分メッセージ
ヨハネ21章12節をお読みします。
イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
ヨハネ21章では、イエス・キリストと彼の弟子たちとの暖かい交流の情景が描かれています。一見したところ、何気ない日常の風景と見えなくもありません。ですが、弟子たちにとっては、言葉に表し切れないような深い意味をもった出来事でした。
その日の前夜の事、弟子たちの多くは魚をとる漁師だったので、彼らは生活のために漁に出ました。しかし、夜通し漁をしても、魚は一匹もとれませんでした(3節)。
夜が明けたころ、彼らの先生であるキリストが岸辺に立っていました。しかし、不思議なことに弟子たちはその人が先生であることに気がつきませんでした(4節)。それには訳があります。この時、キリストは十字架の死、および三日目の復活の後であったからです。
キリストの復活を意味するイースターの後、キリストは以前と同じように弟子たちと生活を共にすることはなくなりました。しかし、弟子たちが助けを必要とする時に、キリストは彼らの前に姿を現しました。
その後、弟子たちは多くの魚がとれる奇跡を見て、その人がキリストであることに気がつきました(6、7節)。ですが、それよりも、懐かしい先生との一緒の食事に、彼らは大変力づけられたはずです(9~13節)。
今日の私たちクリスチャンにとっても、キリストはそれと同じような関係にあるのだと思います。イエス・キリストは私たちが一番必要とする時に、一緒にいて力づけてくださるお方です。キリストはこう言って約束しておられます。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28章20節)。
お祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちは一人であっても、多くの人々と一緒であっても、支えられることを求めて心細くなる時があります。そのような時、「いつも共にいる」と言われるキリストの約束の通り、私たちを支え、励ましてくださいますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020年4月26日(日) 礼拝ガイド
説教「さあ来て、食事をしなさい」
ヨハネ21:3-13(お持ちの聖書をお読みください)
2020年のイースターから2週間が経ちました。私たちの毎日の生活には良くなる兆しが見えません。それはまるで、イエス様が復活されたという事実を知りながらも、この先どうなっていくかがわからず、恐れ惑っている主の弟子たちの気持ちと同じです。
そのような時期に、弟子たちはガリラヤ湖で魚をとっていました。この弟子たちの姿に皆さんもいろいろと感じるところがあると思います。ですが、主は弟子たちをどのように思われたでしょうか?今日はヨハネ21章の御言葉を読んで、主が弟子たちにどのようになさったのかを知りましょう。そして、主が今日の私たちにも同じようになされることを思って、御言葉に耳を傾けてまいりましょう。
弟子たちが漁をしていた理由は、何よりも生活のためでした。彼らのうちの多くはガリラヤの漁師でしたので、彼らにとって漁とは特別なことではなく、当たり前のことでした。しかし、漁をしたにも関わらず魚がとれなかったのは当前なことではありませんでした。夜通し働いた彼らは、心身ともに堪えたことでしょう(3節)。
そこに、主がやさしく声をかけられ、大漁の奇跡を現わされたのです(4~6節)。弟子たちの驚きは、どれほど大きかったことでしょう。また、主が弟子たちに向けられた憐みと恵みの大きさはどれほどであったか、私たちもじっくりと味わってみるべきです。
さらに、主がなされた「大漁の奇跡」は、弟子たちにとっても、今日の私たちクリスチャンにとっても、特別な意味があります。それは、ペテロたち、主の最初の弟子たちは「人間をとる漁師」として主に呼び出された者であるからです(ルカ5:1-11)。彼らは大漁の奇跡を見て、主だとわかったと同時に、主と最初に出会った時のことも懐かしく思い出したに違いありません。
また、弟子たちにとって、懐かしい主と一緒に食事ができたことは、よりいっそう大きな励ましとなったことでしょう。彼らは言葉少なく、主がいつものように分けてくださったパンと魚を食べ(13節)、体も心も満たされ、癒されたのです。
主の復活を見届けた弟子たちに必要なのは、休息と食事と励ましでした。主は弟子たちの必要をよく知られて、彼らに近づかれ、彼らの必要を十分に満たされました。今日の私たちクリスチャンにも主は同じようにしてくださいます。
主はこのように言って約束してくださいました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)今日も私たちは主の御約束に感謝して祈りましょう。そして、主が約束してくださった聖霊を求めて祈り続けましょう(ヨハネ20:22)。
(引用:聖書 新改訳 (c)1970,1978,2003
新日本聖書刊行会)
2020/04/20
2020年4月26日の聖書日課
(写真:ネモフィラ)
ヨハネ21:1-14
21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
21:2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
ヨハネ21:1-14
21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
21:2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020/04/19
2020年4月19日3分メッセージ
出エジプト15章2節をお読みします。
主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
旧約聖書の出エジプト記は、イスラエル人がモーセに導かれてエジプトの国を脱出する出来事を語っています。イスラエル人はエジプトでは奴隷として苦しみ、エジプトを脱出した後は生き延びるために様々な苦しみを味わいました。
エジプトを脱出した直ぐ後に、イスラエル人はかつての支配者であったエジプト人から追いかけられましたが、海を割って渡る奇跡によって救われました。彼らは多くの救いの体験を振り返り、神に感謝してこの出エジプト15章の言葉を賛美歌として歌いました。
イスラエル人はエジプトで苦しむことによって、神に救いを求めて祈り始めました(出エジプト2章23節)。そして、大きな奇跡を体験することによって、神に感謝して賛美することを始めました(出エジプト15章1節)。イスラエル人は神に祈り、神に賛美することで、神の民として整えられていきました。
彼らと同じ聖書の神を信じるクリスチャンも同じです。クリスチャンは必ずしも清くて強く、助けを必要としない者ではありません。悩み、苦しむ時、神に助けを求めて祈るのがクリスチャンであり、助けを得て神に賛美するのがクリスチャンの本来の姿です。
神の救いを必要としておられる方は、今日もご一緒にお祈りしたいと思います。
天の父なる神様。私たちは神による大きな奇跡を必要しています。イスラエル人が救いを求めて祈り、救いを得て賛美したように、私たちも大いなる神の力を賛美しつつ、救いを祈り求めます。病に苦しむ全世界の人々を救ってください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2020年4月19日(日) 礼拝ガイド
説教「いと高き方を称える」
出エジプト15:1-6(お持ちの聖書をお読みください)
今日はモーセと神の民イスラエル人の歌った賛美歌を聴きましょう。イスラエル人は奴隷として苦しんだエジプトを脱出しました。その直ぐ後に、エジプト人がイスラエル人を追いかけて来ましたが、神様が海を分けて、イスラエル人は海を渡って救われました。出エジプト15章の言葉は、このような神様の大きな奇跡に感謝して歌った賛美歌の歌詞です。
今、皆さんは賛美歌を聴いたり、歌ったりすることのできる心の状態でしょうか。ある人は、心が石のように重く、とても賛美歌を聴いたり、歌ったりできないような気持ちであるかもしれません。
そうであったとしても、この賛美歌を歌っているイスラエル人のことを考えてみてください。彼らは決して悩みや苦しみを知らない人々ではありません。私たちと同じように様々な問題で悩み、苦しみ、神様の救いを切に祈り求めている人々です(出エジプト2:23)。彼らが祈った結果、神様の大きな救いの御業を体験することができて、そのことに感謝して賛美歌を歌っているのです。
イスラエル人が神様を賛美できるのは、悩み苦しんで沈んだ心を神様が引き上げてくださり、神様が彼らの口に賛美歌を与えられたからです。「主は、私の力であり、ほめ歌である。」(2節)
皆さんの気持ちが沈んでしまった時にも、ぜひ賛美歌のメロディーとその歌詞に耳を傾けてみてください。賛美歌はなんの理由もなく神様をほめ歌ってはいません。神様は確かに賛美されるにふさわしいお方です。だからこそ、世界中のクリスチャンが数多くの賛美歌を作って、歌っているのです。
そのような賛美歌が作られ、歌われる前に、神様は私たちクリスチャンのために大きな奇跡を行って、私たちを救ってくださいました。私たちは、「主は輝かしくも勝利を収められ」(1節)たことを実際に体験して知ることができます。神様の救いを体験すると、私たちの心は高く引き上げられ、自然と私たちの口に神様への「ほめ歌」がわき上がってきます。
私たちが心から感謝して賛美歌を歌う時、神様は私たちの賛美歌を聴いてくださいます。また、私たちの周りの人々も賛美歌を聴いて、私たちの神様が賛美にふさわしいお方であることを知ることができます。確かに聖書に記されている通り、私たちの神様は「イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(詩篇22:3)
最後にもう一度、私たちはイスラエル人の賛美歌に耳を傾けましょう。「主よ。あなたの右の手は力に輝く。」(6節)私たちも神様の力強い御手に頼り、神様の救いの御業を体験してまいりましょう。そして、神様に心からの感謝を込めて賛美歌を歌っていきたいと思います。
(引用:聖書 新改訳 (c)1970,1978,2003
新日本聖書刊行会)
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