2026/07/26
2026年7月26日(日) 献堂72周年記念礼拝
2026/07/03
御霊の実(3)喜び
「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ15:11)
御霊は喜びをも与えると約束しています。それはイエス・キリストが約束された喜びでもあります(ヨハネ15:11)。キリストは、信じる者に御霊が「川となって流れ出る」ようになると言われました(ヨハネ7:37-39)。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4:14)。御霊の喜びは、この世の様々な趣味、快楽と異なり、決して尽きることがありません(伝道2:1-11)。神の御霊が注がれるところに、御霊の喜びも満ちあふれます。その通り、初代教会の「弟子たちは、ますます喜びと聖霊とに満たされていた」(使徒13:52)と証しされています。キリストの弟子であるクリスチャンは、いつの時代にも様々な困難に直面しました。それにも関わらず彼らは「主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ」(ハバクク3:18)と告白することができました。「主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。」(ハバクク3:19)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2026/06/01
御霊の実(2)愛
「愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。」(ヨハネ第一4:7)
愛は、御霊の実の第一に挙げられるものです。いつまでも存続するものの中でも、「最も大いなるものは、愛である」(コリント第一13:13)と言われています。
キリストは愛について多く教えています。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタイ5:44)「求める者には与え、借りようとする者を断るな。」(マタイ5:42)天から注がれる神の愛は、自分の利益を求めず、敵をも愛し、他者に与える愛です(コリント第一13:5)。
私たち人間の愛は長続きしません(黙示録2:4)。「ボアネルゲ、すなわち、雷の子」(マルコ3:17)と呼ばれた使徒ヨハネも、師であるキリストのみ胸に近くにとどまり(ヨハネ13:23)、愛することについて学びました。「ここに愛がある。」(ヨハネ第一4:10)私たちも神の愛にならう者となりましょう。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2026/05/01
御霊の実(1)御霊から生じる
「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテヤ5:22-23)
イエス・キリストは、彼に従う弟子たちが実を結ぶようになると約束しました(ヨハネ15:5)。その実のうちには「御霊の実」(ガラテヤ5:22-23)も含まれます。
また、キリストは人が実によって見分けられることを示し、「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ7:17)と言いました。良い実を結ぶためにも、人は良いものによって養われる必要があります。キリストは人を養うため「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15:4)と命じました。
キリストは御霊を与えてくださり(ヨハネ15:26)、私たちは「霊から永遠のいのちを刈り取る」(ガラテヤ6:8)ことができます。御霊の実は人の手で作り出すことができません。それは天の恵みであり、キリストという良い幹に接ぎ木されてこそ得られる実りです(ローマ11:17)。
ですから、私たちは良い実を得ることができるために、「御霊によって進もう」(ガラテヤ5:25)ではありませんか。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2026/04/15
2026年4月14日(火) 教会合同墓参
2026年のイースター礼拝を終え、日を変えて久しぶりに教会合同墓参を行いました。関東教区墓地に埋葬されているご家族であり、いつもの顔なじみの方々が集まりましたが、改めて考えてみると、お互いに顔を合わせるのが数年ぶりであることがわかりました。ご家族のことだけでなく、昔の教会の思い出話に花が咲きました。
2026/04/05
「志村キリスト教会50周年記念誌」(2004年)より
コンクリート造りの小中学校の校舎が、木造の校舎に造り直されている。コンクリートは人工的に作り出されたもので、冷たく無機質で心を和ませることが出来ないからである。木は神の創造されたものである。創世記によれば、全てのものは人間が登場するために必要なものとして創造されている。だから木には温もりがあり、人の気持ちを和ませる要素があり、木には癒す力が備わっている。
私がはじめて志村教会に行ったのは高校二年の六月であった。聖書は開けない、聖歌は歌えず、祈りもできずに教会の片隅に座っていた。今日のように様々な楽器はなく、皆はひたすら声を張り上げて歌い、大きな声で祈り、説教を食い入るようにして聴いていた。
礼拝が終わって帰る時に、不思議な事に「この次も教会に来てみよう」という決意が与えられた。それは礼拝の中に心を和ませるあたたかい雰囲気があり、それが強く心に残ったからである。あたたかい雰囲気は人工的に作り出されたものではなく、神の御霊が志村の群れに豊かに注がれ、キリストの恵みを皆が熱い心をもって讃えていたからであると思う。
志村教会のあたたかさは、私が伝道第一線に出てから三十五年以上を経ているが、志村教会から毎年出身献身者への励ましの手紙と心のこもるプレゼントという形で存続している。皆さんからの手紙とプレゼントをいただく度ごとに、初めて教会へ行った日のように心があたためられ、志村教会が私の母教会であることを心から感謝している。
志村教会は創立五十年を迎え、ビジョンを張り広げて五十一年目に踏み出そうとしているが、御霊に導かれ、主を喜び伝える教会として前進されますように心から祈り続けています。
私は志村教会の出身であることを感謝し、また誇りに思い、私も主の愛に満ち溢れるあたたかい教会を形成するために、主に仕える日々を歩みたいと祈り願うものである。
※志村キリスト教会五十周年記念誌(2004年6月27日発行)
