2025/11/30

2025年11月30日「さめていても眠っていても」

テサロニケ第一5:4-10
 5:4 しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。
 5:5 あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。
 5:6 だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。
 5:7 眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。
 5:8 しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。
 5:9 神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。
 5:10 キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。

 手紙の書き手パウロは、この文章の前に「眠っている人々」(テサロニケ第一4:13)すなわち身内の死者を悲しむ人々を励ましています。「主の来臨の時」(テサロニケ第一4:15)に復活することを語って。「その日」(:4)とは、主イエス・キリストが再び地上に来られる時です。

 また、その日を恐れ怪しむことのないよう教えます。私たち人間には、その日がいつであるかがわかりません。しかし、そのために自暴自棄になってしまわないように(:5)。なぜなら、私たちは「光の子」(:5)であるから、また「義の太陽」(マラキ4:2)であるキリストが光を照らされるからです。

 クリスマスは一年で最も日の短い「冬至」に合わせて祝われます。冬至を過ぎれば日が再び長くなり始めます。キリストは私たちに光と目ざめを与えるため、人の子として生まれ、死に、神の子として復活されました。「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。」(:10)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/11/23

2025年11月23日「目をとめ、いつくしんで言われた」

マルコ10:17-22
 10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
 10:18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
 10:19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。
 10:20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。
 10:21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
 10:22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。

 イエス・キリストは、出会う誰に対しても真剣に向き合われました。群衆に教え(マルコ10:1)、パリサイ人と問答し(マルコ10:2)、弟子たちの質問に答え(マルコ10:10)、子どもたちを迎えて祝福されました(マルコ10:16)。

 キリストの前にひざまずいて質問した人に対しても、「永遠の生命を受けるため」(:17)の言葉と行動の正しい指針を示されました。しかし、質問した当人は「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」(:22)とあります。彼が持っていた「たくさんの資産」がキリストの教えに従うのに足かせとなってしまったのでした。

 「永遠の生命を受ける」とは、「神の国にはいる」(マルコ10:23)ことです。キリストは常に「神の国」(マルコ1:15)について教えました。同じくキリストは「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(マルコ10:15)と言われました。神の国は、よき者のもの、金で買えるものでなく、ただ「受けいれる」べきものです。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/11/16

2025年11月16日「約束のものを取り戻す」

ヘブル11:13-19
 11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
 11:14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
 11:15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
 11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。
 11:17 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。
 11:18 この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。
 11:19 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。

 「これらの人」、すなわちアブラハムらは「信仰をいだいて」(:13)、神の「召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行」(ヘブル11:8)きました。彼らは「約束のものは受けていなかった」(:13)のですが、神から幻を与えられ(創世記15:1)、それを頼りに旅を続けました。

 アブラハムは信仰のゆえに神に求めることができました(:14-16、創世記15:2)。信仰の子孫であるクリスチャンも同じように神に祈り求め、神はその祈りを聞き届けてくださいます(創世記15:6)。

 信仰によって、アブラハムはわが子イサクを神にささげました(:17)。神はイサクを犠牲にすることを求めました(創世記22:2)。アブラハムの苦悩は想像を絶しますが、彼は神に従うことによって約束の成就を求めました。その結果、「彼は、いわば、イサクを生きかえして渡され」(:19)ました。

 これはまさにキリストの十字架と復活を示す型です。「あなたがたは…彼(キリスト)を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」(コロサイ2:12)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/11/15

2025年12月21日(日) クリスマス礼拝

志村キリスト教会のクリスマス

2025年
12月21日(日)10:30~11:45 クリスマス礼拝

2026年
1月1日(水)10:30~11:45 元旦礼拝

※どなたでもご出席いただけます。ぜひお越しください。

2025/11/09

2025年11月9日「主は信仰を認められた」

創世記15:1-6
 15:1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、
「アブラムよ恐れてはならない、
わたしはあなたの盾である。
あなたの受ける報いは、
はなはだ大きいであろう」。
 15:2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。
 15:3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。
 15:4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。
 15:5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。
 15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

 アブラムは、後に「多くの国民の父」を意味する名の「アブラハム」に変えられました(創世記17:5)。彼は神の約束を信じて神の召しに従い(ヘブル11:8)、地上の利権に目を留めず神の約束のみを追求しました(創世記14:23)。そのため、新約聖書でも彼は「信仰の父」とみなされています(ガラテヤ3:6-9)。

 しかし、アブラムへの約束はなかなか実現しませんでした。彼の思いを見通すように、神は「恐れてはならない」(:1)と語りかけました。その言葉に応じ、アブラムは心の思いを言い表しました(:2-3)。彼の信仰は盲従とは違っていたことがわかります。

 その応答に対し、神は言葉とともに幻(映像)を示しました(:5)。言葉では十分に表現できないもの、特に将来について、神は幻やたとえ話のようなイメージを用いて伝えています。

 神の約束は言葉で表現しても、その中身は言葉では伝えられません。しかし、アブラムは神の示しをそのまま「信じた」のです。神はそれをよし、「義」と認められました(:6)。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/11/02

「教会十年の歩み」(1965年)より

祈り伝道する教会 牧師 松崎実也

『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい』。

 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。  使徒行伝四章二九~三一節

 私どものおかれている時代は、二十世紀の後半、宇宙ロケットのとびかう時代、月旅行も夢ではなくなった時代である。果してこういう時代に、見えざる神を信ずることに意義があるのだろうか。しかり、如何に科学が進歩し、文化生活を営むようになったとはいえ、人の心は昔も今も変らない。罪と不安と絶望の中にある、ただそれを目先の快楽でまぎらわせているにすぎない。

 私ども、この時代に生きる教会、キリスト者のなすべきことは何か。それは永遠に変ることのない神の言に信仰をおいて、祈り伝道することである。もし新しいことが起るとすれば、それは、神の言と祈りと信仰とによって、上より、聖霊のみわざとして起るであろう。決して人間の考え出したテクニックや対策からではない。我らは時代にさからって祈り伝道する教会を目ざして進もう。

※教会十年の歩み(1965年6月25日発行)

2025年11月2日「神の御前での食事」

出エジプト24:5-11
 24:5 イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。
 24:6 その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。
 24:7 そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。
 24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。
 24:9 こうしてモーセはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共にのぼって行った。
 24:10 そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。
 24:11 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。

 出エジプト記は、神の民イスラエルの誕生を物語ります。彼らには先祖伝来の信仰がありましたが、信仰をどのように守るべきかを教える「宗教」はありませんでした。その宗教を教えるのが「律法」であり、「契約の書」(:7)です。

 祭司が定められる前、モーセは若者たちに燔祭等の務めを任せました(:5)。モーセは民に律法順守を誓わせ(:7)、契約の血を注ぎかけました(:8)。その後、七十人の長老たち(:9)とともに神を仰ぎ見(:10)、神の御前で食事をしました(:11)。こうしてイスラエルの民は、律法を授かるにあたり、礼拝方法を実体験によって学びました。

 この出来事は、キリストの聖餐式(ルカ22:19-20)のひな形の一つとなりました。律法が神の民に礼拝方法を教えたように、聖餐式はキリストの十字架による贖いのわざを、パンを食べ、ぶどうを飲むことによって体験させます。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」(コリント第一11:26)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)