今年(2025年)は志村キリスト教会の献堂71周年、また大宮キリスト教会にとっては伝道開始70周年の年です。双方の記念の年を祝い、6月22日(日)は大宮教会の小田島幹彦師のビデオ説教を伺い、6月29日(日)はインターネットを用いてオンライン合同礼拝を行いました。志村教会にとってはあまり馴染みのない方法での礼拝でしたが、多くの方にとって新鮮な体験であったようです。午後にはオンラインの証し会を行いました。
2025/06/29
2025年6月29日「神からの願い」
ピリピ2:12-162:12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。2:14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。2:15 それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。2:16 このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。
クリスチャンは、天の父なる神から投じられた火(ルカ12:49)のように燃える、神からの願い(:13)を心に抱くことがあります。それは、燃え盛る欲望とは異なる、神のよしとされる聖なる願いです。その願いを「つぶやかず疑わないで」(:14)実行することで、天の神のわざが地上に実現することになります。そのように歴代のクリスチャンたちが良いわざを実行して、「星のようにこの世に輝いて」(:15)います。
教会も神の作品の一種です。この世のあらゆる事業は「一つ思い」(:2)で取り組むことが不可欠なように、教会も一致することが必要です。一致するためには「へりくだった心」(:3)が必要です。それは「御霊の交わり」(:1)の中で与えられます。
教会は神と人とが「一つ思い」になることで生まれ、成長し、維持されます。教会が一致する時、クリスチャンは「神の子」(:15)と認められるのです。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2025/06/22
2025年6月22日「御霊の一致」
詩篇133篇ダビデがよんだ都もうでの歌133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。133:2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、アロンのひげに流れ、その衣のえりにまで流れくだるようだ。133:3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。これは主がかしこに祝福を命じ、とこしえに命を与えられたからである。
詩篇133篇は「都もうでの歌」、すなわちエルサレムの神殿に向けての巡礼の歌です。
一見すると喜びに満ちているこの詩篇は、実は深い悲しみも入っています。特に、バビロン捕囚という苦難を経験したイスラエルの人々は、七十年間の苦難を過ごして国に帰り、神殿を再建して、礼拝を再開させることができました。捕囚で十二部族がバラバラになった後、主は再び神殿礼拝を回復させ、散らされた民が再び一つになって礼拝できた、そのような深い喜びがあります。一つになって礼拝できることは当然ではなく、特別なこと、神の奇跡である、という思いが込められています。
一つになって礼拝するところに、豊かな神様からの恵みが流れてくる、とも歌われています。大祭司アロンが任職の際に油を注がれ、そのひげに油が流れくだるように、大祭司を経て神の民全体に神の恵み、聖霊の油注ぎが下ることを教えています。
「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。」(ヘブル4:14)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2025/06/15
2025年6月15日「大能の王である神」
詩篇99篇99:1 主は王となられた。もろもろの民はおののけ。主はケルビムの上に座せられる。地は震えよ。99:2 主はシオンにおられて大いなる神、主はもろもろの民の上に高くいらせられる。99:3 彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名をほめたたえるであろう。主は聖でいらせられる。99:4 大能の王であり、公義を愛する者であるあなたは堅く公平を立て、ヤコブの中に正と義とを行われた。99:5 われらの神、主をあがめ、その足台のもとで拝みまつれ。主は聖でいらせられる。99:6 その祭司の中にモーセとアロンとがあった。そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。彼らが主に呼ばわると、主は答えられた。99:7 主は雲の柱のうちで彼らに語られた。彼らはそのあかしと、彼らに賜わった定めとを守った。99:8 われらの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、悪を行う者には報復された。99:9 われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。われらの神、主は聖でいらせられるからである。
2025/06/08
2025年6月8日「主は正義に勝ちを得させる」
マタイ12:14-2112:14 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。12:15 イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、12:16 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。12:17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、12:18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。12:19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。12:20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。12:21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。
イエス・キリストの宣教活動は、信じない者にとっては不可解なものでした。信仰を持たなかったキリストの兄弟たちは、「自分をはっきりと世にあらわしなさい」と言いました(ヨハネ7:3-5)。キリストは信じることなく敵対する人々からは身を隠す一方、信仰をもって求める人々には身を現し、教えと奇跡をもってその望みに応えました(:14-15)。
キリストは、「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」(マタイ13:12)と言われました。それが神に選ばれた僕の使命であり、「正義を…宣べ伝える」(:18)と言われていても、「その声を大路で聞く者はない」(:19)と言われるキリストの宣教のあり方でした。
キリストは「狭い門からはいれ」(マタイ7:13)と言われます。「それを見いだす者が少ない」(マタイ7:14)といっても、キリストの道に望みを置く者はそれを見出すのです。「捜せ、そうすれば、見いだすであろう。」(マタイ7:7)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2025/06/06
2025年6月22日(日) 献堂71周年記念礼拝
2025/06/01
2025年6月1日「光・知恵・さんび」
エペソ5:14-215:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。5:15 そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、5:16 今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。5:17 だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。5:18 酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、5:19 詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。5:20 そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、5:21 キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。
聖書は「神は光」(ヨハネ第一1:5)であると言い、光のたとえによって神を説明しています。「光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである」(エペソ5:9)
一方、私たち人間は光でなくやみ、すなわち神と異なる存在であると聖書は語ります。しかし、「以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」(エペソ5:8)と言われます。光なる神を信じ、従うことで「光の子」(エペソ5:8)として歩むことができると聖書は教えます。「立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう」(:14)
光は知恵をも意味します。やみ路を照らす光のように、神は暗い人生に光を照らし、正しい人生を歩ませます(:15)。「時を生かして用いなさい」(:16)とは、悪に頼らず正義によって生きることを勧める言葉です。聖書は乱行を戒めます(:18)。
神の光に照らされた心は神の知恵に満たされ、罵りではなくさんび(:19)、感謝(:20)の言葉があふれるようになります。「互に仕え合う」(:21)ことこそキリスト教の最高の美徳です。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)