2025/03/06

聖書の教理~(25)旧約の聖霊

 聖霊について、旧約聖書でも多く言及されていてその性質が示されています。

 a)創造の霊。前回学んだように、聖霊は創造の働きに関与しています(創世記1:2)。聖書において「霊」は「息」と表現されることがあります。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)

 b)力の霊。神はモーセに与えた御霊を七十人の長老にも分け与え、民の重荷を担う力を与えました(民数記11:17)。人に神の力が臨むことを「主なる神の手がわたしの上に下った」(エゼキエル8:1)と表現しています。

 c)再生の霊。神はエゼキエルに「息よ、四方から吹いて来て…彼らを生かせ」と預言させ、死人がよみがえる幻を示されました(エゼキエル37:9-10)。この幻は捕囚の民が回復し、再生することを示すものでした。

 d)約束の霊。神は「わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ」(ヨエル2:28)と約束されました。新約聖書はこれを受けて、「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれた」(使徒2:33)と証ししています。

 聖霊の働きは旧約時代にも散発的に行われました。しかし、旧約時代すなわちキリスト以前は「御霊がまだ下っていなかった」(ヨハネ7:39)と言われ、「すべての者に注ぐ」という約束は後の時代に実現しています。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/03/02

2025年3月2日「主のいつくしみはとこしえに」

詩篇107:10-16
 107:10 暗黒と深いやみの中にいる者、
苦しみと、くろがねに縛られた者、
 107:11 彼らは神の言葉にそむき、
いと高き者の勧めを軽んじたので、
 107:12 主は重い労働をもって彼らの心を低くされた。
彼らはつまずき倒れても、助ける者がなかった。
 107:13 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、
主は彼らをその悩みから救い、
 107:14 暗黒と深いやみから彼らを導き出して、
そのかせをこわされた。
 107:15 どうか、彼らが主のいつくしみと、
人の子らになされたくすしきみわざとのために、
主に感謝するように。
 107:16 主は青銅のとびらをこわし、
鉄の貫の木を断ち切られたからである。

 詩篇107篇は「主のいつくしみ」(詩篇107:1,43)に囲まれた賛美歌です。主のいつくしみは、救いを求めて主に呼ばわる者に注がれます(:13)。主は「もろもろの国」の「東、西、北、南」に住む人々にいつくしみを注がれます(詩篇107:3)。

 ここで歌われている人々の救いは、主なる神の救いを示す少数の例に過ぎません。迷う者には導きを(:4-9)、縛られた者には解放を(:10-16)、病む者にはいやしを(:17-22)、悩む者には平安を(:23-30)、「主のいつくしみ」は求める者に適切な救いをもたらします。

 キリストは「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。」(マタイ7:7)と語られます。私たちがなすべきことは主に救いを求めることであり、「主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝する」(詩篇107:31)ことです。「ハレルヤ(主をほめたたえよ)」(詩篇106:48)と叫んで主の救いを賛美しましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/27

聖書の教理~(24)聖霊の性質

 聖書の神の第三位格である「聖霊」について、聖書はその呼び名によって聖霊の性質を説明しています。

 a)神の霊。神による天地創造の業に、神の霊が関与していることが示されています(創世記1:1-2)。神の霊はキリストに下り(マタイ3:16)、キリストの弟子たちに下りました(使徒2:2-4)。

 b)キリストの霊。神の霊が「キリストの霊」(ローマ8:9)と言い換えられています。

 c)助け主。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え…るであろう。」(ヨハネ14:16)

 d)聖霊(聖なる霊)。「ところが彼らはそむいてその聖なる霊を憂えさせたので、主はひるがえって彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。」(イザヤ63:10)

 e)約束の霊。「イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。」(使徒2:33)

 f)真理の霊。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」(ヨハネ16:13)

 これらの聖霊の性質はクリスチャンを助ける力となります。「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。」(エペソ1:13)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/23

2025年2月23日「小さな者の大きな信仰」

マタイ15:21-28
 15:21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。
 15:22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
 15:23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
 15:24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
 15:25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
 15:26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
 15:27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
 15:28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

 キリストの地上での宣教の主な対象は、異邦人ではなくユダヤ人でした(マタイ10:5-6)。しかし、ユダヤ人の一部の人々がキリストに反発し(マタイ15:1-2)、そのために宣教の旅路が変えられることも度々ありました。「ツロとシドンとの地方」(:21)は宣教の目的地ではありませんでした(:24)。

 しかし、カナン人の女性がキリストに向かって「ダビデの子よ」と叫びました(:22)。異邦人である彼女はユダヤ人の信仰に学んで、娘の回復のためワラをもつかむ思いでキリストの奇跡を求めたのです。キリストは彼女の高度な信仰的理解に応じて、「小犬とパン」のような高度なたとえで諭されました(:26)。

 「小犬」のたとえは侮辱とも捉えられる言葉でしたが、彼女はキリストの言葉を活用し、「小犬もパンくずはいただきます」と応答しました(:27)。キリストは「あなたの信仰は見あげたものである」(:28)と言って癒やしの奇跡を行われました。信仰が山を動かす力を持つ一例をここに見ます(マタイ17:20)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/20

聖書の教理~(23)救いの保証

 キリストは「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」(ルカ9:62)と言われました。キリストから救いを受けたクリスチャンは、救いを失うことがあるでしょうか。既に受け取った救いをないがしろにしないように、キリストはこのような戒めを語られたのです。

 一方で聖書は、「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:39)とも言っています。救いは神の業であり、神が間違いなく保証しておられますが、受け手である私たち人間には救いの事実を忘れてはならない責任があります。

 「クリスチャンの完全」という言葉があります。私たちが救いを忘れず確保するために、以下の事柄が求められます。a)罪を避けて神の御旨に従う(申命記18:13)。b)神の定めた目標に達する(マタイ5:48)。c)御霊により導かれる(ガラテヤ3:3)。d)時間をかけて結実する(ガラテヤ5:22-23)。

 神の完全な救いに与るためには、私たち自らの意思で神の御旨に従う必要があります。その時、私たちを神の御霊が助けてくださいます。「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。」(ガラテヤ5:5)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年) 

2025/02/16

2025年2月16日「道を教える師」

イザヤ30:18-21
 30:18 それゆえ、主は待っていて、
あなたがたに恵を施される。
それゆえ、主は立ちあがって、
あなたがたをあわれまれる。
主は公平の神でいらせられる。
すべて主を待ち望む者はさいわいである。
 30:19 シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。
 30:20 たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。
 30:21 また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を耳に聞く。

 預言者イザヤの時代、イスラエル王国の身の周りも戦争が多くあり、諸国は戦いのために馬を多く集めていました(イザヤ30:16)。しかし、聖書は「馬を多く獲ようとしてはならない」(申命記17:16)と忠告しています。

 私たち人間は、いつ来るかわからない災難を恐れて不安に陥りがちです。必要な備えを整えつつも、災難に遭うことを思い描くばかりではいけません。なぜなら、「あなたの神、主が共におられるから」(申命記20:1)です。

 聖書の神は災いの神ではなく、恵を施される神です。神は人に幸いをもたらすために待っておられます。それゆえ、「すべて主を待ち望む者はさいわいである」(:18)と言われています。

 人は何の指針もないと不安になります。しかし、聖書の神は教師であり、私たちに行くべき道を教えられます(:21)。私たちに必要なのは、当てもなく何もしないことでなく、神の幸いを信じて行動することです。「これは道だ、これに歩め」という声は信仰をもって前進する者に与えられます。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/02/13

聖書の教理~(22)聖化

 「聖化」とは、人が「聖となる」(出エジプト40:9)ということです。聖書の言葉から学ぶと、聖化とは礼拝用具のように、神への奉仕のために取り分けられる(聖別)ことを意味します。

 聖化はいつ起こるのでしょうか。聖書は、神のわざによって瞬間的に聖化される(コリント第一1:2)ことと、人の努力によって時間をかけてゆっくり聖化される(ヘブル12:14)ことの両方を教えています。これは、人の聖化の過程には、神の働きと人の働きの両面があることを示しています。

 聖化は神によって始められます。その手段は、a)キリストの血(ヘブル13:12)、b)神の霊(コリント第一6:11)、c)神の真理の御言(ヨハネ17:17)によります。

 続いて、聖化は人の努力が求められます。その努力とは、a)聖なるものとされる信仰(ローマ6:11)、b)御霊の導きへの従順(ローマ8:13)です。キリストも語られました。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(下)」福音出版社(1982年)