2025/07/20

2025年7月20日「自分の目にある梁」

マタイ7:1-8
 7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
 7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
 7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
 7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
 7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
 7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
 7:8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

 マタイ5~7章の「山上の説教」は、折に触れて語られたキリストの多くの説教をまとめたものです。それぞれの話に厳密な文脈があるわけではありませんが、キリストの一貫した教えとしてそれぞれの話を比較することで新しい学びを得ることができます。

 人をさばくことの問題点が二つ挙げられています。他人の欠点をさばくなら、そのさばきが自らの欠点をさばくことになるのが一つです(:2)。「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26:52)もう一つは、「自分の目にある梁」(:3)です。建物の梁をかんなで仕上げると木の「ちり」が出ます。目を傷つけるちり以上の、梁のような大きな障害が自分にあることを、さばく人はしばしば認めないものです。

 人をさばくには善悪を見分ける確かな目が必要です。真珠を見分けられない豚(:6)のような目では、正しいさばきなど望むことはできません。それこそ私たちが真に求めるべきものです(:7)。「日夜叫び求める選民のために、正しいさばきを…神はすみやかにさばいてくださるであろう。」(ルカ18:7-8)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/13

2025年7月13日「神の手の内にある者」

イザヤ49:14-19
 49:14 しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
 49:15 「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。
 49:16 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
 49:17 あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒した者は、あなたから出て行く。
 49:18 あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
 49:19 あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。

 イザヤ書は、神の都エルサレム、またの名をシオンに「よきおとずれ」(福音、イザヤ40:9)を語りかけます。しかし、神の民イスラエルは「主はわたしを忘れられた」(:14)と言い、苦難を忘れられず、失意に沈んでいます。

 福音を語りかける神は、父母の愛(:15)のように変わらぬ思いを神の民に抱き続けていると言います。神の目には、神の民は手の外側でなく内側(たなごころ)に刻まれており(:16)、他人に見せる飾りではなく、神ご自身がずっと見続けて忘れないことを告げています。

 神の民の目には現実の苦難しか見えていません。しかし、神の目には民を守る石がきが、荒廃ではなく発展が(:17)、多くの集められた人々が(:18)見えています。福音が告げる「神の救」(イザヤ49:8)は、人が想像することを超えています。「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/06

2025年7月6日「キリストにつけられた者」

ローマ6:4-11
 6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
 6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
 6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
 6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
 6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
 6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

 教会では様々な活動が行われており、礼拝の方法も教会により様々な形がありますが、その本質は一つです。

 その中でも、教会ではキリスト教式の葬儀が行われます。そして、キリスト教の葬儀は他の宗教とは決定的に異なる点があります。それは、葬儀を含むキリスト教の諸活動は、すべて神への礼拝として行われるということです。葬儀の中でも神への賛美が歌われ、祈りがささげられます。クリスチャンとなる第一歩である洗礼式(バプテスマ)も神への礼拝であり、キリストに自らの身をゆだねる儀式です。また洗礼式はキリストと共に葬られる(:4)、葬儀でもあります。

 キリストと共に葬られた者は、キリストと共に死人の中からよみがえります。クリスチャンは心に、キリストの死と復活が、分かれることなく一つとなって刻まれています。「私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる」(:5)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/06/29

2025年6月22日(日) 献堂71周年記念礼拝

 今年(2025年)は志村キリスト教会の献堂71周年、また大宮キリスト教会にとっては伝道開始70周年の年です。双方の記念の年を祝い、6月22日(日)は大宮教会の小田島幹彦師のビデオ説教を伺い、6月29日(日)はインターネットを用いてオンライン合同礼拝を行いました。志村教会にとってはあまり馴染みのない方法での礼拝でしたが、多くの方にとって新鮮な体験であったようです。午後にはオンラインの証し会を行いました。

2025年6月29日「神からの願い」

ピリピ2:12-16
 2:12 わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
 2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
 2:14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。
 2:15 それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。
 2:16 このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。

 クリスチャンは、天の父なる神から投じられた火(ルカ12:49)のように燃える、神からの願い(:13)を心に抱くことがあります。それは、燃え盛る欲望とは異なる、神のよしとされる聖なる願いです。その願いを「つぶやかず疑わないで」(:14)実行することで、天の神のわざが地上に実現することになります。そのように歴代のクリスチャンたちが良いわざを実行して、「星のようにこの世に輝いて」(:15)います。

 教会も神の作品の一種です。この世のあらゆる事業は「一つ思い」(:2)で取り組むことが不可欠なように、教会も一致することが必要です。一致するためには「へりくだった心」(:3)が必要です。それは「御霊の交わり」(:1)の中で与えられます。

 教会は神と人とが「一つ思い」になることで生まれ、成長し、維持されます。教会が一致する時、クリスチャンは「神の子」(:15)と認められるのです。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/06/22

2025年6月22日「御霊の一致」

詩篇133篇
 ダビデがよんだ都もうでの歌
 133:1 見よ、兄弟が和合して共におるのは
 いかに麗しく楽しいことであろう。
 133:2 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、
 アロンのひげに流れ、
 その衣のえりにまで流れくだるようだ。
 133:3 またヘルモンの露がシオンの山に下るようだ。
 これは主がかしこに祝福を命じ、
 とこしえに命を与えられたからである。

 詩篇133篇は「都もうでの歌」、すなわちエルサレムの神殿に向けての巡礼の歌です。

 一見すると喜びに満ちているこの詩篇は、実は深い悲しみも入っています。特に、バビロン捕囚という苦難を経験したイスラエルの人々は、七十年間の苦難を過ごして国に帰り、神殿を再建して、礼拝を再開させることができました。捕囚で十二部族がバラバラになった後、主は再び神殿礼拝を回復させ、散らされた民が再び一つになって礼拝できた、そのような深い喜びがあります。一つになって礼拝できることは当然ではなく、特別なこと、神の奇跡である、という思いが込められています。

 一つになって礼拝するところに、豊かな神様からの恵みが流れてくる、とも歌われています。大祭司アロンが任職の際に油を注がれ、そのひげに油が流れくだるように、大祭司を経て神の民全体に神の恵み、聖霊の油注ぎが下ることを教えています。

 「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。」(ヘブル4:14)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/06/15

2025年6月15日「大能の王である神」

詩篇99篇
 99:1 主は王となられた。
 もろもろの民はおののけ。
 主はケルビムの上に座せられる。
 地は震えよ。
 99:2 主はシオンにおられて大いなる神、
 主はもろもろの民の上に高くいらせられる。
 99:3 彼らはあなたの大いなる恐るべきみ名を
 ほめたたえるであろう。
 主は聖でいらせられる。
 99:4 大能の王であり、公義を愛する者であるあなたは
 堅く公平を立て、ヤコブの中に正と義とを行われた。
 99:5 われらの神、主をあがめ、
 その足台のもとで拝みまつれ。
 主は聖でいらせられる。
 99:6 その祭司の中にモーセとアロンとがあった。
 そのみ名を呼ぶ者の中にサムエルもあった。
 彼らが主に呼ばわると、主は答えられた。
 99:7 主は雲の柱のうちで彼らに語られた。
 彼らはそのあかしと、
 彼らに賜わった定めとを守った。
 99:8 われらの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。
 あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、
 悪を行う者には報復された。
 99:9 われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。
 われらの神、主は聖でいらせられるからである。

 詩篇99篇は、神の民イスラエルの長い礼拝の歴史を歌っています。「主は王となられた」(:1)との歌い出しは、「大能の王」(:4)である聖書の神を「もろもろの民」(:1)に告知する宣言です。
 イスラエルにとって神は、モーセら神の代理人たちの仕えた神であり(:6)、神の民の信仰と不信仰の歩みの中にあって「公義を愛する」(:4)神であり続けました。「あなたは彼らにゆるしを与えられた神であったが、悪を行う者には報復された。」(:8)
 神は「聖でいらせられる」と三度(:3,5,9)も繰り返し歌われています。その神の荘厳な御姿を目の当たりにし、預言者イザヤは「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。」(イザヤ6:5)と言いました。しかし、神はおののきつつ礼拝を捧げる者を受け入れてくださいます。
 「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇121:1-2)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)