1)天(あま)つ真清水 流れきて
あまねく世をぞ うるおせる
ながく渇きし わがたましいも
汲みていのちに かえりけり
2)天つ真清水 飲むままに
渇きを知らぬ 身となりぬ
つきぬ恵みは 心のうちに
泉となりて わきあふる
3)天つ真清水 受けずして
罪に枯れたる 人草の
さかえの花は いかで咲くべき
注げ いのちの 真清水を
アーメン
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
2024/01/21
2024/01/14
2024年1月14日3分メッセージ
賛美歌:讃美歌21・189「ちいさいこどもの」
聖書:サムエル上3:1-10
イスラエル人を指導する偉大な預言者であったサムエルは、祭司エリのもとで神殿奉仕を行うわらべでした(サムエル上3章1節)。サムエルは最初から預言者であった訳ではありませんでした。
神はサムエルに呼びかけられました。しかし、サムエルは神の声であることに気づかず、祭司エリの声と勘違いしました。同じことが三度繰り返されて、ようやくエリが神の声であることに気づき、サムエルにこう言って諭しました。「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」(サムエル上3章2~9節)
この出来事は、預言者サムエルがいかにして神の御言葉を正しく聞き受け、預言者の務めを果たすようになったかを示しています。それと同時に、私たちにも神がそれぞれの方法で語りかけておられ、それに私たちが気づくべきであることをも教えています。
私たちの手元にある聖書も「神の御言葉」として受け止めることが大切です。サムエルも最初は、神の声を聞きながら、それを神の御言葉であると知ることができませんでした。私たちも「しもべは聞きます」という素直な心持ちで聖書に向き合うならば、聖書は神からの御言葉として私たちに響いてきます。
「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」(ペテロ第二1章19節)
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119篇105節)御言葉を目にし、耳にしていながら悟ることのできない私たちの心を開いてください。この暗闇の時代に進むべき私たちの道を、御言葉によって示してください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
聖書:サムエル上3:1-10
主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。(サムエル上3章10節)
イスラエル人を指導する偉大な預言者であったサムエルは、祭司エリのもとで神殿奉仕を行うわらべでした(サムエル上3章1節)。サムエルは最初から預言者であった訳ではありませんでした。
神はサムエルに呼びかけられました。しかし、サムエルは神の声であることに気づかず、祭司エリの声と勘違いしました。同じことが三度繰り返されて、ようやくエリが神の声であることに気づき、サムエルにこう言って諭しました。「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」(サムエル上3章2~9節)
この出来事は、預言者サムエルがいかにして神の御言葉を正しく聞き受け、預言者の務めを果たすようになったかを示しています。それと同時に、私たちにも神がそれぞれの方法で語りかけておられ、それに私たちが気づくべきであることをも教えています。
私たちの手元にある聖書も「神の御言葉」として受け止めることが大切です。サムエルも最初は、神の声を聞きながら、それを神の御言葉であると知ることができませんでした。私たちも「しもべは聞きます」という素直な心持ちで聖書に向き合うならば、聖書は神からの御言葉として私たちに響いてきます。
「あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」(ペテロ第二1章19節)
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119篇105節)御言葉を目にし、耳にしていながら悟ることのできない私たちの心を開いてください。この暗闇の時代に進むべき私たちの道を、御言葉によって示してください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
讃美歌21・189「ちいさいこどもの」
1)ちいさいこどもの サムエルは
かみさまのよぶこえ ききました
サムエルよ サムエルよ
2)ちいさいこえで きょうもまた
かみさまのよぶこえ きこえます
ぼくのなまえも わたしのも
しもべは ききます
しゅよ おはなしください
アーメン
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
かみさまのよぶこえ ききました
サムエルよ サムエルよ
2)ちいさいこえで きょうもまた
かみさまのよぶこえ きこえます
ぼくのなまえも わたしのも
しもべは ききます
しゅよ おはなしください
アーメン
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
2024/01/07
2024年1月7日3分メッセージ
賛美歌:讃美歌21・87「罪なき小羊」
聖書:ヨハネ1:29-34
イエス・キリストが宣教活動を始める前、バプテスマのヨハネが先駆者として宣教活動を行っていました。ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3章2節)と言って教え、罪を悔い改めた人々にバプテスマ(洗礼)を授けていました(マタイ3章6節)。
ヨハネは「わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである」(ヨハネ1章15節)と言って、自らは後に来るべきキリストの前備えに過ぎないと証言していました。ヨハネは人々に水によるバプテスマを授けていましたが、キリストは神の霊たる御霊によってバプテスマを授けると説明しました(ヨハネ1章33節)。水は罪を清めることの象徴でしかありませんが、御霊は罪の清めそのものを行います(コリント第一6章11節)。 そして、キリストご自身を指して「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。この言葉は、御霊による罪の清めが「神の小羊」たるキリストを通して行われることを意味します。すなわち、キリストご自身が犠牲の小羊となり、十字架にかかって死なれることを示しています(ペテロ第一1章19節)。
ヨハネはキリストを指して「このかたこそ神の子である」とも言いました(ヨハネ1章34節)。キリストは神の子の権能を用いて、信じ従う者に命を与え(ヨハネ20章31節)、神の子となる力をも与えてくださいます(ヨハネ1章12節)。新年も神の子キリストの御力を受けて、私たちも神の子としてきよく力強い歩みをさせていただきましょう。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。新しい年の始まりにあたり、神の子キリストの導きの力を改めて味わい、その罪の清めと新しい命の恵みに与りたいと願います。どうぞ神の子としてしっかりと歩めるよう、私たちに新しい導きを下さい。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
聖書:ヨハネ1:29-34
ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。(ヨハネ1章29節)
イエス・キリストが宣教活動を始める前、バプテスマのヨハネが先駆者として宣教活動を行っていました。ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3章2節)と言って教え、罪を悔い改めた人々にバプテスマ(洗礼)を授けていました(マタイ3章6節)。
ヨハネは「わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである」(ヨハネ1章15節)と言って、自らは後に来るべきキリストの前備えに過ぎないと証言していました。ヨハネは人々に水によるバプテスマを授けていましたが、キリストは神の霊たる御霊によってバプテスマを授けると説明しました(ヨハネ1章33節)。水は罪を清めることの象徴でしかありませんが、御霊は罪の清めそのものを行います(コリント第一6章11節)。 そして、キリストご自身を指して「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。この言葉は、御霊による罪の清めが「神の小羊」たるキリストを通して行われることを意味します。すなわち、キリストご自身が犠牲の小羊となり、十字架にかかって死なれることを示しています(ペテロ第一1章19節)。
ヨハネはキリストを指して「このかたこそ神の子である」とも言いました(ヨハネ1章34節)。キリストは神の子の権能を用いて、信じ従う者に命を与え(ヨハネ20章31節)、神の子となる力をも与えてくださいます(ヨハネ1章12節)。新年も神の子キリストの御力を受けて、私たちも神の子としてきよく力強い歩みをさせていただきましょう。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。新しい年の始まりにあたり、神の子キリストの導きの力を改めて味わい、その罪の清めと新しい命の恵みに与りたいと願います。どうぞ神の子としてしっかりと歩めるよう、私たちに新しい導きを下さい。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
讃美歌21・87「罪なき小羊」
1)罪なき小羊 十字架にかかりて
あざけり受けつつ 苦しみ忍びて
われらの罪とが にないたまえり
イエスよ あわれみたまえ
2)罪なき小羊 十字架にかかりて
あざけり受けつつ 苦しみ忍びて
われらの罪とが にないたまえり
イエスよ あわれみたまえ
3)罪なき小羊 十字架にかかりて
あざけり受けつつ 苦しみ忍びて
われらの罪とが にないたまえり
イエスよ 平和をたまえ
アーメン
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
あざけり受けつつ 苦しみ忍びて
われらの罪とが にないたまえり
イエスよ あわれみたまえ
2)罪なき小羊 十字架にかかりて
あざけり受けつつ 苦しみ忍びて
われらの罪とが にないたまえり
イエスよ あわれみたまえ
3)罪なき小羊 十字架にかかりて
あざけり受けつつ 苦しみ忍びて
われらの罪とが にないたまえり
イエスよ 平和をたまえ
アーメン
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
2024/01/01
2024年1月1日(月) 新年のごあいさつ
![]() |
| (写真:ナツメヤシ) |
新年あけましておめでとうございます。
今年は元旦礼拝を始めとして、毎週日曜日の主日礼拝、
毎週木曜日の祈祷会を欠かさず活動してまいります。
新型コロナウイルス感染症はだいぶ落ち着いてきました。
今後も東京都発表の「最新のモニタリング項目の分析について」
を確認しつつ、必要な対策を講じていきます。
皆様におかれましても、実り多い新年でありますように。
2023/12/31
2023年12月31日3分メッセージ
賛美歌:讃美歌21・260「いざ歌えいざ祝え」
聖書:マタイ2:7-12
イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの出来事は、聖書にその前後について多くの記述があります。マタイ2章の「東からきた博士たち」はキリストの誕生を星の出現で知り、日数をかけてはるばる遠国より旅をしてエルサレムにやって来ました。
キリストの誕生からはだいぶ日数が過ぎていました(マタイ2章16節)。博士たちの知らせに対するエルサレムの人々の反応は、喜びではなく恐れでした(マタイ2章3節)。
博士たちはキリストの所在地については見当がつきませんでした。当時の王であったヘロデは、博士たちの異国に不慣れなことにつけこんで利用しようとしました。ヘロデは博士たちにキリストがベツレヘムいることを教えて、彼らからキリストの情報を得ようとしたのです(マタイ2章8節)。ヘロデはキリストを抹殺しようとしたのでした(マタイ2章13節)。
ヘロデは博士たちに対して情報量の点で勝っていました。しかし、博士たちには神が味方に立っていました。彼らをキリストがいる家まで導いたのは、彼らを東方からエルサレムまで上らせた星でした(マタイ2章9節)。そして、彼らはキリストを拝むことができ、キリストに敵対するヘロデの手からも逃れることができました(マタイ2章12節)。
聖書の神は、信じて従う者に味方してくださる方です。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」(ローマ8章31節)新しい年も神の導きを信じて従ってまいりましょう。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。今年も守りと導きの中、終わりの日まで歩むことができましたことを感謝いたします。新しい一年がどのような年となるか、私たちにはわかりませんが神様はご存じです。新しい年にも新しい恵みを賜り、新しく導いてくださいますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
聖書:マタイ2:7-12
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。(マタイ2章10節)
イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの出来事は、聖書にその前後について多くの記述があります。マタイ2章の「東からきた博士たち」はキリストの誕生を星の出現で知り、日数をかけてはるばる遠国より旅をしてエルサレムにやって来ました。
キリストの誕生からはだいぶ日数が過ぎていました(マタイ2章16節)。博士たちの知らせに対するエルサレムの人々の反応は、喜びではなく恐れでした(マタイ2章3節)。
博士たちはキリストの所在地については見当がつきませんでした。当時の王であったヘロデは、博士たちの異国に不慣れなことにつけこんで利用しようとしました。ヘロデは博士たちにキリストがベツレヘムいることを教えて、彼らからキリストの情報を得ようとしたのです(マタイ2章8節)。ヘロデはキリストを抹殺しようとしたのでした(マタイ2章13節)。
ヘロデは博士たちに対して情報量の点で勝っていました。しかし、博士たちには神が味方に立っていました。彼らをキリストがいる家まで導いたのは、彼らを東方からエルサレムまで上らせた星でした(マタイ2章9節)。そして、彼らはキリストを拝むことができ、キリストに敵対するヘロデの手からも逃れることができました(マタイ2章12節)。
聖書の神は、信じて従う者に味方してくださる方です。「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」(ローマ8章31節)新しい年も神の導きを信じて従ってまいりましょう。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。今年も守りと導きの中、終わりの日まで歩むことができましたことを感謝いたします。新しい一年がどのような年となるか、私たちにはわかりませんが神様はご存じです。新しい年にも新しい恵みを賜り、新しく導いてくださいますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
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