2023/05/14

2023年5月14日3分メッセージ



 ルカ7章6節、7節をお読みします。
百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。…ただ、お言葉を下さい。…

 イエス・キリストが活動した時代は、紀元1世紀の初期ローマ帝国の時代でした。当時のローマ帝国にとって辺境の地であったイスラエルは、ローマ帝国に服属するヘロデ大王の子孫によって支配されていました。そのため、イスラエルの国中にローマの軍隊が駐屯しており、イスラエル人はローマ帝国の支配に服していました。
 イスラエルの地において、庶民に最も身近なところでローマ帝国の権威を司っていたのが「百卒長」という人々でした。百卒長が率いるローマの軍隊は、治安維持の活動だけでなく、今日でいう行政の多くの働きを司っていました。ローマ帝国の権威を司る百卒長は人々から恐れられていましたが、中には住民のため協力を惜しまず、非常な尊敬を受けていた百卒長もありました(ルカ7章5節)。
 そのような尊敬されていた百卒長の一人が、キリストに助けを求めました。この百卒長の頼みにしていた部下が病気で死にかかっており、病気のいやしの奇跡を期待したためでした(ルカ7章2~3節)。百卒長は日ごろ権威に服する者であり、イスラエル人に協力しながらもローマ帝国と立場が違うことを弁えて、ユダヤ人、すなわちイスラエル人の長老を交渉役として間に立てる配慮も持った人物でした。
 この百卒長は、キリストに病気をいやす神の力と権威があることを認めたのでした(ルカ9章1節)。キリストはこの百卒長の態度と言葉とを見てとって非常に感心され、「これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」と言われました。その後、百卒長の部下は信じたとおりにいやされました(ルカ7章9~10節)。
 この百卒長は自分の持つ権威に頼らず、代わりにキリストの権威を認めてそれに頼りました。聖書の神の前に、すべての人間は天からの祝福を受ける資格がある訳ではありません(ルカ15章21節)。しかし、どんなに立場が遠くとも神の権威を認めてより頼む者に、神は祝福をもって報いてくださいます。神は私たちの祈りに応え、私たちを顧みてくださる方です(ルカ7章16節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストは本物の権威を認めた百卒長の信仰に応え、百卒長の願いは叶えられました。私たちもこの信仰の模範に励まされ、信仰を持って本物の権威を持たれる神様により頼みます。どうぞ私たちの祈りに応え、私たちを顧みてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年5月14日の聖書日課

(写真:ヒトツバタゴ)

ルカ7:1-10
 7:1 イエスはこれらの言葉をことごとく人々に聞かせてしまったのち、カペナウムに帰ってこられた。
 7:2 ところが、ある百卒長の頼みにしていた僕が、病気になって死にかかっていた。
 7:3 この百卒長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした。
 7:4 彼らはイエスのところにきて、熱心に願って言った、「あの人はそうしていただくねうちがございます。
 7:5 わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」。
 7:6 そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。
 7:7 それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。
 7:8 わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
 7:9 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。
 7:10 使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/05/07

2023年5月7日3分メッセージ



 ガラテヤ3章29節をお読みします。
もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

 約二千年前にキリスト教会が誕生した時代、キリストを信じる人々は教会外部の人々から「クリスチャン」、別の言葉で「キリスト者」と呼ばれるようになりました(使徒11章26節)。一方、クリスチャン自身も自らはキリストに属するものであり、「キリストのもの」であるという自覚がありました(コリント第一3章23節)。
 さらに、クリスチャンは神の選びの民である「アブラハムの子孫」であるという自覚もありました。アブラハムは神から約束を賜り(創世記22章15~18節)、子孫に神の祝福を受け継がせた信仰者です(ガラテヤ3章18節)。アブラハムが受けた祝福は、同じ聖書の神を信じるクリスチャンにも約束として与えられています(ガラテヤ3章9節)。
 そして、この神の祝福を受け継ぐ、または相続することの条件が、「もしキリストのものであるなら」ということに係っています。アブラハムの子孫とはイスラエル人の血筋であることを意味します。しかし、イエス・キリストを信じるクリスチャンは、キリストの名前のゆえに神の子とされる能力が与えています(ヨハネ1章12節)。キリストがクリスチャンに神の子としての身分を授けました(ガラテヤ4章5節)。それゆえ、クリスチャンは神の祝福を受け継ぐ相続人である、と聖書は語りかけています(ガラテヤ4章7節)。
 キリストの名前で呼ばれている「クリスチャン」ということは、このように祝福に満ちた存在です。神の祝福を求めてクリスチャンとなることは素晴らしいことです。またクリスチャンである方は、自らにつけられたキリストの御名を誇りとしましょう。「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」(ガラテヤ3章8節)という約束を固く握りましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今日も御言葉によって、与えられている神の約束の素晴らしさを知ることができました。自らの存在、自らにつけられたキリストの御名が祝福の基であることを固く握り、勇気と感謝をもって今日一日を力強く歩ませてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年5月7日の聖書日課

(写真:クンシラン)

ガラテヤ3:29-4:7
 3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。
 4:1 わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕となんの差別もなく、
 4:2 父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれているのである。
 4:3 それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。
 4:4 しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。
 4:5 それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。
 4:6 このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。
 4:7 したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/04/30

2023年4月30日3分メッセージ



 コリント第一8章1節をお読みします。
知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。

 コリント人への第一の手紙の著者パウロは、同じ手紙の中で愛について語っています。「たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。」(コリント第一13章2節)この言葉の通り、預言や知識や信仰というものはキリスト教でも大事なものですが、ただ一点の「愛」に欠けることがあれば、預言や知識や信仰を持っていても意味がない、と私たちに語っています。
 人として、クリスチャンとして、正しい知識を得て、正しい判断をもって行動することは大事なことです。しかし、「最も大いなるもの」(コリント第一13章13節)と言われている愛を得ていなければ、正しい知識が人を傷つけることが起りえます。コリントの教会の人々も、互いに知識を振りかざして他人を見下し、高慢な態度で他人を排除するようなことがあったようです。そのように人々の交わりに不和をもたらしていた状況に対し、パウロは愛を知るべきことを訴えかけます(コリント第一8章2節)。
 聖書の教える愛は神によって備えられたものです(コリント第一2章9節)。神の愛は、神を愛する者に与えられます。そして、愛のある所に本当の知識がもたらされます(コリント第一8章3節)。愛とは他人を貶めることではなく、逆に高めることです。コリント第一13章には、愛の多彩な特徴について記されています。その教えの最後に、パウロはこの愛を追い求めるように勧めています(コリント第一14章1節)。それは、愛を知った後に、その愛から豊かな性質を受け継ぐことができるようになるからです。
 愛の知識は、イエス・キリストの十字架によって示されました(ヨハネ第一3章16節)。「いっさいのことを、 愛をもって行いなさい。」(コリント第一16章14節)と勧められています。私たちも聖書を学ぶことを通して、神の愛をしっかり受け継いでまいりましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは聖書を通して様々な知識を得ることができます。しかし、学んでいながら、愛を見失うことが無いように、私たちの学びをも導いてください。私たちも神に愛されている者として日々を過ごすことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023年4月30日の聖書日課

(写真:ハナズオウ)

第一コリント8:1-9
 8:1 偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。
 8:2 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。
 8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。
 8:4 さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。
 8:5 というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、
 8:6 わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。
 8:7 しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。
 8:8 食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。
 8:9 しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2023/04/23

2023年4月23日3分メッセージ



 詩篇4篇6節をお読みします。
多くの人は言う、「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。主よ、どうか、み顔の光をわたしたちの上に照されるように」と。

 「どうか、わたしたちに良い事が見られるように。」この言葉は、すべての人の心にある祈りの言葉ではないでしょうか。しかし、「良い事」の中身は、人それぞれであるでしょう。
 私たち、人間が悩む時に神頼みすることは自然なことだと思います。日ごとの糧にありつき、安らかに眠りにつくことは(詩篇4篇7~8節)、いざ食物や安眠にありつけなくなる時に、そのありがたみに改めて気づかされるものです。それらの物事を決して当たり前と思ってはなりません。生活の必要のために祈ることは、とても大事なことです。
 聖書が教える「良い事」とは、状況や立場によって中身の変わるものではありません。それは、私たちめいめいが勝手に思い描く「正義」ではなく、「わたしたち」、人類全体にとって益となるような「正義」であり、「わたしたち、みんなの正義」です。その「義を助け守られる神」(詩篇4篇1節)に寄り頼んで祈るように、聖書は私たちに勧めています。「主はわたしが呼ばわる時におききくださる。」(詩篇4篇3節)と。
 ですから、正義の神に寄り頼む者としてふさわしいかどうか自らを省みて(詩篇4篇4~5節)、そして感謝をもって祈り求めましょう。「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」(マタイ6章11節)と。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの心の内にある祈りを、「主はおききくださる」と私たちは教えられました。私たちの正義を守られる神様に「良い事」を祈り求めます。どうか私たちに正義の光を照らし、私たちの人生の歩みを導いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)