2020/09/06

2020年9月6日3分メッセージ



 ヨハネ8章12節をお読みします。
イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

 光はやみを打ち消します。暗やみの中では、物を見分けることが難しく、道をまっすぐに歩くことも困難です。そこに小さな光でもあれば物を見分けやすくなり、道から迷い出ることもなくなります。また生き物は日の光が無ければ健全に生きることができません。光は命をもたらします。
 イエス・キリストは自らを「世の光」であると言いましたが、ある人々はキリストの言葉を否定しました(ヨハネ8章13節)。彼らはまるで、キリストを自分の部屋から締め出しているようです。部屋から光を、つまり光を放つ光源を締め出してしまうなら、その部屋に残されるのは暗やみです。キリストの言葉を否定して耳をふさいでしまうなら、キリストから何も得ることはできません。
 キリストはこのような言葉も言っています。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14章6節)キリストから何らかの恩恵を受けたいなら、キリストの言葉に耳をふさぐのではなく、耳を開いて聴き、その言葉をしっかりと受け止めなければなりません。そうすればきっと心に光が当てられ、行きべき道筋が見えてくるはずです。
 キリストは「あなたがたは、世の光である」とも言っています(マタイ5章14節)。月は太陽の光を反映します。キリストの光をたくさん浴びるなら、私たちの身の回りも光に満ちてきます。光の中を歩んでまいりましょう(第一ヨハネ2章10節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは日々の生活の中で、光を見失ったように何もわからなくなってしまう時があります。そのような時、私たちがつまずいて希望を失うことのないよう、私たちに光を与えてください。どうぞイエス・キリストの言葉によって私たちを導いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/09/05

イスラエル人の動物観

 神は人間に先んじて、水の生き物、空の鳥、地の生き物を「種類にしたがって」創造されました(創世記1:20-25)。その後、神は人を創造され、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と命じられました(創世記1:28)。
 その後、神は人にそれらの多種多様な動物を名付けさせました(創世記2:19-20)。聖書、特に旧約聖書(ヘブル語)に記されている動物の生態の詳しさと種類の多さは、イスラエル人の観察力の高さを示しています。一方、魚類の名称がほとんど見られないのは、イスラエルに魚の棲める水場が少ないことが原因かもしれません。
 イスラエル人は「家畜」と「野の獣」をはっきりと区別していました(創世記1:24)。族長時代の人々は家畜を財産と見なし、家畜の多さが富を表しました(ヨブ1:3)。家畜に相当する動物の描写はかなり正確で詳しい一方、野の獣に相当する動物(例えばワシ、申命記32:11)については当時の人々の先入観に基づいていて、必ずしも動物の正確な生態を表している訳ではありません。
 一方、聖書は人間と動物の共通点も語っています(伝道3:18-21)。モーセの律法は動物に一定の権利を認めています(出23:12、レビ25:7)。神はノアと結んだ祝福の契約に動物も含めています(創世記9:9-17)。動物は日々の糧を神に祈り求め、神はその祈りに応えられます(ヨブ38:39-41)。時に、動物は神の使いとされて人を養い(第一列王記17:6)、人を正しい道へ導きます(民数記22:23-33)。聖書は動物を含む被造物の救済についても語っています(ローマ8:19-22)。
 律法において、人間の命を贖うために動物の命が犠牲とされました(出34:19-20)。しかし、犠牲とされる動物は「きよい動物」に限定され(創世記8:20)、「食べてよい生き物と食べてはならない生き物」を区別することが命じられました(レビ11章)。また異種交配は禁じられました(レビ19:19)。
 聖書は人間と動物が平和を保つべきことを語ります(ヨブ5:22-23)。動物も神の律法に服するものであり、神の契約により人と争うことがないようにされます(ホセア2:18)。私たち人類は、神の定められた区別に従い、共に神の恵みを分かち合うものとして動物に接していくべきです。 

参考資料:『旧約新約聖書大事典』(教文館、1989年)より、動物関係の項目

2020/09/01

2020年9月6日の聖書日課

 

(写真:キツネノカミソリ)

ヨハネ8:12-20
 8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
 8:13 するとパリサイ人たちがイエスに言った、「あなたは、自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない」。
 8:14 イエスは彼らに答えて言われた、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない。
 8:15 あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない。
 8:16 しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである。
 8:17 あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある。
 8:18 わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである」。
 8:19 すると、彼らはイエスに言った、「あなたの父はどこにいるのか」。イエスは答えられた、「あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう」。
 8:20 イエスが宮の内で教えていた時、これらの言葉をさいせん箱のそばで語られたのであるが、イエスの時がまだきていなかったので、だれも捕える者がなかった。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/30

2020年8月30日3分メッセージ



 ローマ7章4節をお読みします。
わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。

 キリストの使徒パウロは、同じ信仰を持つローマ在住のクリスチャンを「兄弟」と呼んで、この聖句によってキリスト信仰の神髄を教えています。
 しかし、ここで語られていることは、クリスチャンやモーセの律法に従うイスラエル人だけに関わる問題ではありません。すべての人間に関わることであり、すべての人間は縛られている存在であることを語っています。すなわち、すべての人間は「律法」に縛られていると言っているのです。
 ここで言われている「律法」とは、具体的には国の法律や人の倫理などの形をとりますが、それによって人間のあらゆる社会が維持されている大切なルールです。基本的には人間はこのルールに従っているのですが、いったんルールを破ってしまうと、社会的な罰を受けたり、あるいは自らの心の良心により責められることが起ります。
 人間がこのルールから解放される方法はただ一つ、それは死んで悪事を行う力を失うことです。キリストの十字架の死は、ルールに縛られた人間を解放するためでした。
 しかし、忘れてはならないのは、このルールすなわち「律法」は消えて無くなった訳ではないことです。人間として生きていくためには律法に従わなければなりません。そのために、キリストは信じる者に「新しい霊」(ローマ7章6節)すなわち「新しいいのち」(ローマ6章4節)を与えるために復活されたのです。
 信仰は私たちを束縛するのではなく、私たちに自由を与えます(ガラテヤ5章1節)。また真の自由とは私たちの思い通りに生きることではなく、何ものにも責められることなく、私たちの自由な意思によってルールに従うことのできることを意味します(第一テサロニケ5章23節)。

 私たちも何ものによっても責められるところのない、自由な日々を送ることができますように、ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは人間という器によって縛られている者です(ローマ7章24節)。私たちが正しい事にも従うことのできない弱さを感じています。どうぞ私たちのすべての罪をお赦しくださり、イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちに自由を得させてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/24

2020年8月30日の聖書日課

 (写真:ヤブラン)

ローマ7:1-6
 7:1 それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。
 7:2 すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。
 7:3 であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。
 7:4 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。
 7:5 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。
 7:6 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/23

2020年8月23日3分メッセージ



 ヨブ28章28節をお読みします。
『見よ、主を恐れることは知恵である、悪を離れることは悟りである』

 ウヅの人、ヨブは持てるものすべてを失うという苦難に遭い、自らの人生と苦難の意味に答えうる知恵を探求しました。
 私たちが知恵を必要とする時、どうしたら良いでしょうか。学問を積むべきでしょうか。知恵ある人に助言を求めるべきでしょうか。人生の経験の中から知恵を見出だすべきでしょうか。
 ヨブは、かつて莫大な財産を持ち、家族や友人にも恵まれ、善に親しみ悪を退けるような人格者でもありました。そのヨブがすべてを失った後、彼はかつて自分のものとしていたものが彼を救うことができない現実を悟りました。知恵は「すべての生き物の目に隠され」ていて、決して金銭や努力では獲得できないものであるとヨブは語ります(ヨブ28章21節)。
 またヨブは自らの判断を放棄する、いわゆる「妄信」に陥りませんでした。ヨブは知恵を神の手の業の中に見いだしました。そして、神の業から知恵を学び取ろうとした結果、一つの結論に達しました。それは、「主を恐れることは知恵である」ということです(ヨブ28章28節)。
 ヨブが見いだした知恵は、イエス・キリストの言葉では「真理」と言い換えることができます。それは、私たち人間の力によって獲得できるものではありません。知恵を持つ者から授けられるものであり、その言葉に従うことが必要です。キリストはこのように語っています。「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8章32節)。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ヨブが知恵を求めたように、私たちも人生を歩むために知恵を必要としています。どうか、人間の知恵に勝る、天からの知恵を私たちに与えてください(ヤコブ3章17節)。私たちが天の知恵を用いて、私たちの人生を見つめ直すことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/08/17

2020年8月23日の聖書日課

(写真:オミナエシ)

ヨブ28:12-28
 28:12 しかし知恵はどこに見いだされるか。
悟りのある所はどこか。
 28:13 人はそこに至る道を知らない、
また生ける者の地でそれを獲ることができない。
 28:14 淵は言う、『それはわたしのうちにない』と。
また海は言う、『わたしのもとにない』と。
 28:15 精金もこれと換えることはできない。
銀も量ってその価とすることはできない。
 28:16 オフルの金をもってしても、
その価を量ることはできない。
尊い縞めのうも、サファイヤも同様である。
 28:17 こがねも、玻璃もこれに並ぶことができない。
また精金の器物もこれと換えることができない。
 28:18 さんごも水晶も言うに足りない。
知恵を得るのは真珠を得るのにまさる。
 28:19 エチオピヤのトパズもこれに並ぶことができない。
純金をもってしても、その価を量ることはできない。
 28:20 それでは知恵はどこから来るか。
悟りのある所はどこか。
 28:21 これはすべての生き物の目に隠され、
空の鳥にも隠されている。
 28:22 滅びも死も言う、
『われわれはそのうわさを耳に聞いただけだ』。
 28:23 神はこれに至る道を悟っておられる、
彼はそのある所を知っておられる。
 28:24 彼は地の果までもみそなわし、
天が下を見きわめられるからだ。
 28:25 彼が風に重さを与え、
水をますで量られたとき、
 28:26 彼が雨のために規定を設け、
雷のひらめきのために道を設けられたとき、
 28:27 彼は知恵を見て、これをあらわし、
これを確かめ、これをきわめられた。
 28:28 そして人に言われた、
『見よ、主を恐れることは知恵である、
悪を離れることは悟りである』と」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)