2019/11/10

2019年11月10日3分メッセージ


願い以上のことをなさる神  志村キリスト教会 生田新一

 入信前の私は、先に入信していた妻に付き合う形で毎週礼拝に出席していました。ある聖日に、牧師から受洗を促され、それを受け入れ受洗しました。今年で四十年になりますが、信仰はまだまだ拙いものです。
 仕事でも、問題が起これば祈ってきましたが、主の御声を聴く前に自分の判断で行動する事が多くありました。土曜日、日曜日勤務の職場が続き、礼拝に出席できる職場への異動を祈ると同時に、上司に申し出ました。しかし、結果は毎週土曜、日曜日が勤務(四週に一回休めるが)の職場への異動となってしまいました。定年を五年後に控え、この職場に定年まで居る事になるのか、などと考えたりもしました。
 そんな折、住んでいる地区で区画整理事業が進められており、換地先に家を建て替えることになりました。設計業者と建設業者との打ち合わせは、毎週月曜日に休暇を取る必要も無く行う事ができました。そして翌年の九月に新しい家は完成し、牧師先生に祝福の祈りをして戴き、引っ越しました。
 新居に移った翌年の四月に、その職場で二年の勤務を終えた段階で、出先機関への異動となりました。そこでは毎週土曜、日曜日が完全に休みで、礼拝に欠かさず出席できるようになり、定年までの三年間この職場で勤めました。
 私は礼拝に出席することしか考えていませんでしたが、イエス様は、家の建築の打ち合わせの時、休暇を取らずに充分できるようにされていたことが、後になって分かり主に感謝しました。主は、私が祈り、願っている事以上の事を為して下さる方です。
あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる…(マタイ福音書六章八節)

(聖書 新改訳 (C)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/11/04

2019年11月10日の聖書日課

(写真:ホトトギス)

ヨハネ8:51-59
 8:51 よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう」。
 8:52 ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。
 8:53 あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。
 8:54 イエスは答えられた、「わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わたしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである。
 8:55 あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。
 8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」。
 8:57 そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
 8:58 イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。
 8:59 そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019年11月3日3分メッセージ


 ローマ7章11節をお読みします。
罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺した…

 聖書およびキリスト教が教える中でも特に重要な事柄の一つに「罪」があります。聖書が教える罪は、普通の罪と幾つかの共通点があります。
 第一に、罪とは法律や戒めなどに背くことです。
 第二に、罪には法律などで定められた刑罰が加えられることです。仮に法律に罪や刑罰の定めがなければ、誰も罪と定められず、罰が加えられることはありません。
 だからと言って、法律がなければ罰せられることもなくて良い、ということにはなりません。法律は私たちがより良い、安全な生活を過ごすために必要なものです。
 また私たちは法律によって強制されなくても、自らの良心により行動を戒めています。言わば良心は心の法律です。
 聖書はこれらの法律や良心に逆らう罪の恐ろしさを教えています。それは、罪は人を支配し、法律や良心に逆らわせる力があるからです。聖書はその上、「罪の支払う報酬は死である」と言っています(ローマ6章23節)。
 それと同時に、聖書は罪からの救いを約束しています。イエス・キリストは「おのれの民をそのもろもろの罪から救う者」であると語られています(マタイ1章21節)。キリストを信じているクリスチャンは罪とは無縁ではありませんが、キリストが罪の力から救い出してくださると信じる人々です。

 罪からの救いを求めて、ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちは罪の支配下にある、か弱き罪人です。聖書を読み、言い逃れのできない罪の現実を知りましたが、同じく聖書にはっきりと約束されている罪からの救いを求めます。私たちを罪の力から解放してください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1954年版)

2019/11/01

2019年11月3日の聖書日課

(写真:チャノキ)

ローマ7:7-13
 7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
 7:8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。
 7:9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、
 7:10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。
 7:11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。
 7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
 7:13 では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2019/10/27

2019年10月27日3分メッセージ


 創世記1章1節から5節までをお読みします。
初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

 聖書の最初、創世記の冒頭に世界の始まりが語られます。
 世界がどのように始まり、人類が存在するようになったのか。私たち人類は遥か昔から今に至るまで、世界の始まりの謎を解明しようと様々な努力をしてきました。その結論として語られている様々な説明に、私たちは満足できているでしょうか。
 聖書が語る世界の始まりの物語は、科学者が求めるような客観的資料をほとんど提供していません。代わりに、人間を中心とする見方からは見えてこない見方、すなわち世界の創造者からの見方で世界の始まりを語っています。
 神は言葉によって世界を創造し、名づけることによって世界が存在する「意味」を与えました。創造の終わりに、神は自らが創造したものを「良い」ものであると認めました。
 聖書は、神とはどんな御方なのか、また神が語られ、行われたことを多く語っています。私たちが聖書を読む時、神を知ることを通して自らの起源を知り、自らの存在する意味を知り、自らの価値を知ることができます。聖書の神はこのように語っています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ43章4節)

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たちは世の中の様々な情報に振り回され、自らの価値を見失ってしまうことがあります。私たちが聖書を読む時、世界の創造者である神が「良し」とされた、私たち自身の尊い価値を知ることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 (C)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)

2019/10/20

2019年10月20日3分メッセージ


  ルカ19章26節をお読みします。
あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。

 イエス・キリストは次のようなたとえ話をしました。
 『ある貴族が遠い国に旅に出ました。その目的は皇帝に謁見して、自分の地方の支配権を認めてもらうためでした。
 旅に出る前に、貴族は十人のしもべに資本金を預け、主人の留守中に商売をして金を儲けることを命じました。
 あるしもべは商売をして資本金を十倍に、別のしもべは五倍に増やしました。しかし、ある別のしもべは商売をせず、預かった金を風呂敷に包んでしまっておきました。彼の目には、預かった金は無いに等しく、主人はきびしい人だと映っていたからです。
 彼らの主人は王となって帰ってきました。主人はしもべたちに預けた金を精算し、それぞれの功績に応じてしもべたちを町の代官に任命しました。しかし、主人の命令に従わなかったしもべは叱られ、預けた金は取り上げられて最も功績のあったしもべに与えられました。』
 このたとえ話は、人間には等しく人生を生きる機会が与えられていることを示しています。ある人は自分に与えられたものを不満に思い、折角の機会を生かすことができないのかもしれません。聖書は「すべての事について、感謝しなさい」(第一テサロニケ5章18節)と教えています。充実した人生を生きる秘訣を聖書に学びたいと思います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神さま。私たち一人びとりに与えられたものを感謝しつつ、それを見定めて生かしていく目を私たちに与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)