2020/04/13

2020年4月19日の聖書日課

(写真:ハナニラ)

出エジプト15:1-11
 15:1 そこでモーセとイスラエルの人々は、この歌を主にむかって歌った。彼らは歌って言った、
「主にむかってわたしは歌おう、
彼は輝かしくも勝ちを得られた、
彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた。
 15:2 主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、
彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、
彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
 15:3 主はいくさびと、その名は主。
 15:4 彼はパロの戦車とその軍勢とを海に投げ込まれた、
そのすぐれた指揮者たちは紅海に沈んだ。
 15:5 大水は彼らをおおい、彼らは石のように淵に下った。
 15:6 主よ、あなたの右の手は力をもって栄光にかがやく、
主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。
 15:7 あなたは大いなる威光をもって、
あなたに立ちむかう者を打ち破られた。
あなたが怒りを発せられると、
彼らは、わらのように焼きつくされた。
 15:8 あなたの鼻の息によって水は積みかさなり、
流れは堤となって立ち、
大水は海のもなかに凝り固まった。
 15:9 敵は言った、『わたしは追い行き、追い着いて、
分捕物を分かち取ろう、
わたしの欲望を彼らによって満たそう、
つるぎを抜こう、わたしの手は彼らを滅ぼそう』。
 15:10 あなたが息を吹かれると、海は彼らをおおい、
彼らは鉛のように、大水の中に沈んだ。
 15:11 主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、
だれがあなたのように、聖にして栄えあるもの、
ほむべくして恐るべきもの、
くすしきわざを行うものであろうか。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/04/12

2020年4月12日(日) イースター礼拝


 今年のイースターは、志村キリスト教会の創立以来、初めての休会となりました。しかし、礼拝はそれぞれの家庭で、また個人ででも捧げることができます。主イエス・キリストの復活を思いつつ、それぞれの場所でご一緒にイースター礼拝をささげましょう。

「春に会う花、百合 夢路より目覚めて 限りなき命に 咲き出づる姿よ
 うるわしの白百合 ささやきぬ昔を 百合の花 百合の花 ささやきぬ昔を」

                          (讃美歌496番2節)

2020年4月12日3分メッセージ



 詩篇30篇4節、5節をお読みします。
主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。

 今日はイエス・キリストの復活を祝うイースターの日です。しかし、世界中の多くのキリスト教会は一つの場所に集まることができず、寂しさを覚えながらそれぞれの家庭でイースターを祝っています。
 このような事態はイースターという喜びの日には、ふさわしくないと思われるかもしれません。ですが、イースターが祝うキリストの復活とは、キリストの十字架による死と切り離して考えることができません。キリストの十字架と復活は、キリスト教の信仰には両方とも無くてはならないものです。私たちが悩んだり、苦しんだりする時、その時こそキリストの十字架の苦しみを味わう良いきっかけとなります。
 そして、私たちは同時にキリストの復活による勝利を仰ぎ見て、「主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝」して、今日も神を礼拝することができます。
 私たちが人生の大きな試練にあう時、ある人は「神の怒り」を思うかもしれません。たとえそうであったとしても、「その怒りはただつかのま」です。試練は決して永遠に続くものではなく、必ず終わりの時が来ます。それに対して、神の恵みは「いのちのかぎり長い」のです。キリストが与えると約束しているものは、「永遠の命」です(ヨハネ3章16節)。
 「夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。」今年のイースターも、聖書の約束を信じて、ご一緒に喜んで主をほめたたえましょう。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今年のイースターは世界中の人々と共に、喜びと苦しみを味わっています。まさに私たちの苦しみのためにキリストは十字架にかかられ、私たちの喜びのためにキリストは復活されました。苦しみよりも喜びが増していきますように、キリストの復活を思いつつ願い求めます。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年4月12日(日) 礼拝ガイド


説教(せっきょう)(わたくし)はあなたを()(もと)めます」
詩篇(しへん)30:1-8(お()ちの聖書(せいしょ)をお()みください)
 今日(きょう)はイースターですが、教会(きょうかい)(あつ)まって礼拝(れいはい)できないことが残念(ざんねん)です。ですが、(わたし)たちは教会(きょうかい)(あつ)まらなくても「本当(ほんとう)礼拝(れいはい)」をすることができます。(ほんとう)礼拝(れいはい)とは、人間(にんげん)()うことではなく、神様(かみさま)にお()いすることです。
 (わたし)たちも場所(ばしょ)(ちが)っても、(こころ)(ひと)つにしてイースター礼拝(れいはい)(ささ)げていきましょう。今日(きょう)聖書(せいしょ)の「詩篇(しへん)」は、(わたし)たちと(おな)神様(かみさま)(しん)じるイスラエル(じん)礼拝(れいはい)賛美歌(さんびか)です。イスラエル(じん)(こころ)(ひと)つにして神様(かみさま)礼拝(れいはい)しました。そして、お(たが)いの(よろこ)びや(かな)しみを()かち()いました。
 3(せつ)の「よみ(つまり、()のこと)」や、5(せつ)の「(なみだ)」は、個人的(こじんてき)(くる)しみや(かな)しみでもありますが、それと同時(どうじ)にイラスエル全体(ぜんたい)(くる)しみや(かな)しみを意味(いみ)します。またそれはイスラエルの(くに)問題(もんだい)(かか)わることでもあります。イスラエル(じん)毎週(まいしゅう)礼拝(れいはい)毎年(まいとし)のお(まつ)りで、(くに)全体(ぜんたい)のための(いの)りを(ささ)げているのです。
 この詩篇(しへん)は、(わたし)たちのそれぞれの祖国(そこく)のための(いの)りとすることもできます。(いま)日本(にほん)(くに)全体(ぜんたい)(くる)しんでいる問題(もんだい)について、詩篇(しへん)言葉(ことば)によって(わたし)たちも(こころ)()わせて(いの)っていきましょう。また、感染症(かんせんしょう)問題(もんだい)(ひと)つの(くに)問題(もんだい)ではありません。(わたし)たちは世界中(せかいじゅう)国々(くにぐに)人々(ひとびと)(すく)いのために(こころ)()わせて(いの)っていきましょう。
 神様(かみさま)(わたし)たちの(いの)りを()いてくださいます。「あなたは(わたくし)のたましいをよみから()()げ、(わたくし)(あな)(くだ)って()かないように、(わたくし)()かしておかれました。」(3(せつ))その(とお)り、イエス・キリストは十字架(じゅうじか)()なれた(のち)三日目(みっかめ)のイースターの(あさ)によみがえられました。イエス(さま)復活(ふっかつ)されたことが、この詩篇(しへん)30(ぺん)言葉(ことば)(ただ)しいことの証拠(しょうこ)です。
 (わたし)たちが人間(にんげん)として()きる(なか)で、(なみだ)(なが)すようなつらい出来事(できごと)()わない(ひと)(だれ)もいません。人間(にんげん)はすべて、(なみだ)(かな)しみも()っています。人間(にんげん)失敗(しっぱい)しない(ひと)(だれ)もいません。クリスチャンも(おな)じです。だから、教会(きょうかい)では(よわ)(ひと)でも(あつ)まることができるし、お(たが)いに(なぐ)()うことができます。
 また、(おな)じようにすべての(ひと)(よろこ)びを()っています。ですが、クリスチャンが()っている(よろこ)びは、(かな)しみよりもはるかに(おお)きいのです。「(よろこ)んだり、(かな)しんだり」ではなく、「夕暮(ゆうぐ)れには(なみだ)宿(やど)っても、朝明(あさあ)けには(よろこ)びの(さけ)びがある」(5(せつ))のです。
 (しゅ)イエス・キリストは十字架(じゅうじか)()なれた(のち)復活(ふっかつ)されました。そして、(しゅ)(いま)()きています。(くる)しみは(かなら)()わる(とき)()ます。(しゅ)(しん)じる(もの)に「永遠(えいえん)のいのちを(あた)えます」と約束(やくそく)しています(ヨハネ10:28)。イースターのこの()(わたし)たちは(しゅ)約束(やくそく)された永遠(えいえん)のいのちによって(よろこ)びに()たされ、(しゅ)のあわれみを(もと)めてご一緒(いっしょ)にお(いの)りいたしましょう(詩篇(しへん)30:8)。