世界中で聖書を配布・贈呈する活動を行っている日本国際ギデオン協会の皆様が、5年ぶりに志村キリスト教会にお越しくださいました。今回は、コロナ禍においても活動を継続してきた報告を聞くことができました。
見えるところの状況が変わらないように思えても、着実に新しい時代が始まっている、そのようなことを思わされました。今年のイースターは3月31日です。志村教会もキリストの復活の信仰に立ち、新しい歩みを踏み出したいと思います。
2024/02/27
2024年2月25日(日) ギデオン協会宣教報告
2024/02/25
2024年2月25日3分メッセージ
賛美歌:讃美歌21・434「主よみもとに」
聖書:ヨハネ9:35-41
イエス・キリストは、シロアムの池の近くに住んでいた盲人の目を開ける奇跡を行いました(ヨハネ9章7節)。それに対し、キリストが戒律により働くことが禁じられている安息日に奇跡を行ったことを問題視する人々がありました(ヨハネ9章16節)。
キリストの奇跡を体験した人は、その体験ゆえにキリストを神からつかわされた預言者であると認めました(ヨハネ9章17節)。一方、キリストを問題視した人々は出来事を十分に確かめることなく、キリストを罪人だとしました(ヨハネ9章24節)。そして、奇跡を体験した人を追放して、出来事の検証を放棄してしまいました(ヨハネ9章34節)。キリストが「見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになる」と言われた通りとなりました。
キリストは、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と語りました(ヨハネ3章3節)。ある者はニコデモ(ヨハネ3章)のようにキリストに教えを求めましたが、別の者はキリストの言葉に耳を貸そうとせず、喜ばしい出来事すら目をふさぐようにして認めない者がありました。私たちはどちらの立場に立つでしょうか。
キリストはこのようにも語っています。「わたしは父にお願いしよう。…それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。」(ヨハネ14章16~17節)真理を目にし、耳にするとき、もし私たちの心がそれに従うことを好まなくても、素直に受け入れましょう。「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8章32節)。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちが真理を目にし、耳にするとき、耳が痛い思いがしても素直に受け入れることができますように。私たちを真理によって教え導いてくださいますように。真理によって私たちを聖別してくださいますように(ヨハネ17章17節)。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
聖書:ヨハネ9:35-41
そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。(ヨハネ9章39節)
イエス・キリストは、シロアムの池の近くに住んでいた盲人の目を開ける奇跡を行いました(ヨハネ9章7節)。それに対し、キリストが戒律により働くことが禁じられている安息日に奇跡を行ったことを問題視する人々がありました(ヨハネ9章16節)。
キリストの奇跡を体験した人は、その体験ゆえにキリストを神からつかわされた預言者であると認めました(ヨハネ9章17節)。一方、キリストを問題視した人々は出来事を十分に確かめることなく、キリストを罪人だとしました(ヨハネ9章24節)。そして、奇跡を体験した人を追放して、出来事の検証を放棄してしまいました(ヨハネ9章34節)。キリストが「見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになる」と言われた通りとなりました。
キリストは、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と語りました(ヨハネ3章3節)。ある者はニコデモ(ヨハネ3章)のようにキリストに教えを求めましたが、別の者はキリストの言葉に耳を貸そうとせず、喜ばしい出来事すら目をふさぐようにして認めない者がありました。私たちはどちらの立場に立つでしょうか。
キリストはこのようにも語っています。「わたしは父にお願いしよう。…それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。」(ヨハネ14章16~17節)真理を目にし、耳にするとき、もし私たちの心がそれに従うことを好まなくても、素直に受け入れましょう。「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8章32節)。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちが真理を目にし、耳にするとき、耳が痛い思いがしても素直に受け入れることができますように。私たちを真理によって教え導いてくださいますように。真理によって私たちを聖別してくださいますように(ヨハネ17章17節)。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
讃美歌21・434「主よみもとに」
1)主よ みもとに近づかん
十字架の道 行くとも
わが歌こそ わが歌こそ
主よ みもとに近づかん
2)さすらう間に 日は暮れ
石にまくら するとも
夢にもなお 夢にもなお
主よ みもとに近づかん
3)天よりとどく かけはし
われをまねく みつかい
恵みうけて 恵みうけて
主よ みもとに近づかん
4)目さめてのち ベテルの
石を立てて 捧ぐる
祈りこそは 祈りこそは
主よ みもとに近づかん
5)天(あま)がけゆく つばさを
与えらるる その時
われら歌わん われら歌わん
主よ みもとに近づかん
アーメン
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
十字架の道 行くとも
わが歌こそ わが歌こそ
主よ みもとに近づかん
2)さすらう間に 日は暮れ
石にまくら するとも
夢にもなお 夢にもなお
主よ みもとに近づかん
3)天よりとどく かけはし
われをまねく みつかい
恵みうけて 恵みうけて
主よ みもとに近づかん
4)目さめてのち ベテルの
石を立てて 捧ぐる
祈りこそは 祈りこそは
主よ みもとに近づかん
5)天(あま)がけゆく つばさを
与えらるる その時
われら歌わん われら歌わん
主よ みもとに近づかん
アーメン
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
2024/02/21
2024/02/18
2024年2月18日3分メッセージ
賛美歌:讃美歌21・467「われらを導く」
聖書:出エジプト17:3-7
神の民イスラエルはモーセに従い、約束の地を目指して荒野を旅し続けました。荒野の厳しい旅には、特に飲み水を必要とする子供や家畜も一緒でした(出エジプト17章3節)。ですから、イスラエルの人々にとって飲み水は死活問題であり、彼らが飲み水を求めてモーセに訴え出たことも無理もないことでした(出エジプト17章2節)。
しかし、民の訴え方は脅迫めいたものであったようです。モーセは「彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と言って神に訴えました(出エジプト17章4節)。その後に与えられたのが「マッサ(試みの意)」の水であり、「メリバ(争いの意)」の水でした。
後にモーセはこう語りました。「あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」(申命記6章16節)「主を試みる」とは、具体的には飲み水を求めて、手段を問わずに指導者モーセに食ってかかり、神への不信を口にするような揺さぶりを、神にかけようとすることです。聖書は「目的を達するために悪をもいとわず行動する」ことを戒めています。
聖書の神は人の願いをかえりみ、私たちの切なる祈りに応えてくださる方です。キリストが悪魔に対し『主なるあなたの神を試みてはならない』(マタイ4章7節)と命じ、その後に「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7章7節)と言って私たちを教えています。私たちをかえりみてくださる神に信頼し、祈りをささげましょう(ペテロ第一5章7節)。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。あなたはすべてのことをご存じです。それにも関わらず、私たちはしばしば神を信じることなく、人に対するように神をも指図するような過ちを犯してしまいます。私たちにも「マッサの水の出来事を思い出せ」と聖書は語りかけます。私たちも悔い改めつつ、信仰をもって祈る者へとしてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
聖書:出エジプト17:3-7
そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。(出エジプト17章7節)
神の民イスラエルはモーセに従い、約束の地を目指して荒野を旅し続けました。荒野の厳しい旅には、特に飲み水を必要とする子供や家畜も一緒でした(出エジプト17章3節)。ですから、イスラエルの人々にとって飲み水は死活問題であり、彼らが飲み水を求めてモーセに訴え出たことも無理もないことでした(出エジプト17章2節)。
しかし、民の訴え方は脅迫めいたものであったようです。モーセは「彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と言って神に訴えました(出エジプト17章4節)。その後に与えられたのが「マッサ(試みの意)」の水であり、「メリバ(争いの意)」の水でした。
後にモーセはこう語りました。「あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」(申命記6章16節)「主を試みる」とは、具体的には飲み水を求めて、手段を問わずに指導者モーセに食ってかかり、神への不信を口にするような揺さぶりを、神にかけようとすることです。聖書は「目的を達するために悪をもいとわず行動する」ことを戒めています。
聖書の神は人の願いをかえりみ、私たちの切なる祈りに応えてくださる方です。キリストが悪魔に対し『主なるあなたの神を試みてはならない』(マタイ4章7節)と命じ、その後に「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7章7節)と言って私たちを教えています。私たちをかえりみてくださる神に信頼し、祈りをささげましょう(ペテロ第一5章7節)。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。あなたはすべてのことをご存じです。それにも関わらず、私たちはしばしば神を信じることなく、人に対するように神をも指図するような過ちを犯してしまいます。私たちにも「マッサの水の出来事を思い出せ」と聖書は語りかけます。私たちも悔い改めつつ、信仰をもって祈る者へとしてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
讃美歌21・467「われらを導く」
1)われらを導く あがないの主よ
力強い手で 旅路を守り
そなえてください 天の糧
命のパンを
2)泉を開いて 渇きをいやし
炎と雲との 柱を立てて
行かせてください 世の旅路
主よ わが盾よ
3)ヨルダンの流れを 渡るわれらの
死の恐れ砕き 導く神よ
ほめうた歌おう 声高く
約束の地で
アーメン
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
力強い手で 旅路を守り
そなえてください 天の糧
命のパンを
2)泉を開いて 渇きをいやし
炎と雲との 柱を立てて
行かせてください 世の旅路
主よ わが盾よ
3)ヨルダンの流れを 渡るわれらの
死の恐れ砕き 導く神よ
ほめうた歌おう 声高く
約束の地で
アーメン
出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について)
2024/02/11
2024年2月11日3分メッセージ
賛美歌:讃美歌21・7「ほめたたえよ力強き主を」
聖書:申命記8:1-6
出エジプトの出来事は、神の民イスラエルの試練を語っています。私たちはそこから、私たち自身の人生で経験する試練について学ぶことができます。
四十年は、いくつか世代を重ねるほどの非常に長い期間です。その間、イスラエルの民は荒野の旅を続けていました。彼らには約束の地という目標がありましたが、そこに至るまで様々な試練を経験しなければなりませんでした。その彼らの姿に、私たちがそれぞれ歩んでいる長い人生を垣間見ることができるのではないでしょうか。
彼らの長い旅路で経験した試練には深い意味がありました。申命記に記されたモーセの言葉は、苦しいからと言って無視したり忘れてはならず、「すべての道を覚えなければならない」と語っています。彼らが経験した苦しみとはまさに「試錬」(ヤコブ1章2節)であり、知恵をもって忍耐を働かせるべきものです。また、長い旅路の中で彼らは、神の子としてふさわしく「訓練」(申命記8章5節)されました。
イエス・キリストは同じように荒野で試練に会われました(マタイ4章)。その際、悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と言って試みました。神の子とは、全知全能のスーパーマンであると誤解してはいけません。神の子は試練によって訓練された者であり、それは神の命令を守り行う(申命記8章1節)ことに徹する者です。それゆえ、キリストは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と答えられました(マタイ4章4節)。
聖書の神は今日も、神の子である私たち(ヨハネ1章12節)に天からのパンを備え、私たちの行くべき道を守り導いてくださいます。信仰をもって試練に立ち向かってまいりましょう。「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7章7節)
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。神の民であるイスラエルは約束の地を目指して荒野を旅しました。私たちも神の導きに従い、人生の歩みを完成させることができますように。荒野の旅路にあっても、私たちをいこいのみぎわに伴い、正しい道に導いてください(詩篇23篇2~3節)。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
聖書:申命記8:1-6
あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。(申命記8章2節)
出エジプトの出来事は、神の民イスラエルの試練を語っています。私たちはそこから、私たち自身の人生で経験する試練について学ぶことができます。
四十年は、いくつか世代を重ねるほどの非常に長い期間です。その間、イスラエルの民は荒野の旅を続けていました。彼らには約束の地という目標がありましたが、そこに至るまで様々な試練を経験しなければなりませんでした。その彼らの姿に、私たちがそれぞれ歩んでいる長い人生を垣間見ることができるのではないでしょうか。
彼らの長い旅路で経験した試練には深い意味がありました。申命記に記されたモーセの言葉は、苦しいからと言って無視したり忘れてはならず、「すべての道を覚えなければならない」と語っています。彼らが経験した苦しみとはまさに「試錬」(ヤコブ1章2節)であり、知恵をもって忍耐を働かせるべきものです。また、長い旅路の中で彼らは、神の子としてふさわしく「訓練」(申命記8章5節)されました。
イエス・キリストは同じように荒野で試練に会われました(マタイ4章)。その際、悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と言って試みました。神の子とは、全知全能のスーパーマンであると誤解してはいけません。神の子は試練によって訓練された者であり、それは神の命令を守り行う(申命記8章1節)ことに徹する者です。それゆえ、キリストは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と答えられました(マタイ4章4節)。
聖書の神は今日も、神の子である私たち(ヨハネ1章12節)に天からのパンを備え、私たちの行くべき道を守り導いてくださいます。信仰をもって試練に立ち向かってまいりましょう。「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7章7節)
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。神の民であるイスラエルは約束の地を目指して荒野を旅しました。私たちも神の導きに従い、人生の歩みを完成させることができますように。荒野の旅路にあっても、私たちをいこいのみぎわに伴い、正しい道に導いてください(詩篇23篇2~3節)。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
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