2024/02/11

2024年2月11日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・7「ほめたたえよ力強き主を」
聖書:申命記8:1-6

あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。(申命記8章2節)

 出エジプトの出来事は、神の民イスラエルの試練を語っています。私たちはそこから、私たち自身の人生で経験する試練について学ぶことができます。
 四十年は、いくつか世代を重ねるほどの非常に長い期間です。その間、イスラエルの民は荒野の旅を続けていました。彼らには約束の地という目標がありましたが、そこに至るまで様々な試練を経験しなければなりませんでした。その彼らの姿に、私たちがそれぞれ歩んでいる長い人生を垣間見ることができるのではないでしょうか。
 彼らの長い旅路で経験した試練には深い意味がありました。申命記に記されたモーセの言葉は、苦しいからと言って無視したり忘れてはならず、「すべての道を覚えなければならない」と語っています。彼らが経験した苦しみとはまさに「試錬」(ヤコブ1章2節)であり、知恵をもって忍耐を働かせるべきものです。また、長い旅路の中で彼らは、神の子としてふさわしく「訓練」(申命記8章5節)されました。
 イエス・キリストは同じように荒野で試練に会われました(マタイ4章)。その際、悪魔は「もしあなたが神の子であるなら」と言って試みました。神の子とは、全知全能のスーパーマンであると誤解してはいけません。神の子は試練によって訓練された者であり、それは神の命令を守り行う(申命記8章1節)ことに徹する者です。それゆえ、キリストは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と答えられました(マタイ4章4節)。
 聖書の神は今日も、神の子である私たち(ヨハネ1章12節)に天からのパンを備え、私たちの行くべき道を守り導いてくださいます。信仰をもって試練に立ち向かってまいりましょう。「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7章7節)

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。神の民であるイスラエルは約束の地を目指して荒野を旅しました。私たちも神の導きに従い、人生の歩みを完成させることができますように。荒野の旅路にあっても、私たちをいこいのみぎわに伴い、正しい道に導いてください(詩篇23篇2~3節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・7「ほめたたえよ力強き主を」

1)ほめたたえよ 力強き主を
わが心よ 今しも目さめて
たて琴 かきならしつつ
み名をほめまつれ

2)ほめたたえよ 王なるみ神を
ゆだねまつる わが身をはげまし
みつばさ 伸べたもう主の
みわざ たぐいなし

3)ほめたたえよ 救いのみ神を
そのみ手には 常に備えあり
なやめる われを導く
恵みかぎりなし

4)ほめたたえよ 恵み深き主を
いのちの雨 上より注がれ
つきせぬ そのいつくしみ
ここに現れぬ

5)ほめたたえよ 光のみ神を
生けるものよ そのみ名たたえよ
恵みを とわに忘れず
共に与え アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024/02/04

2024年2月4日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・355「主をほめよわが心」
聖書:ヤコブ1:2-5

なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。(ヤコブ1章4節)

 聖書は、私たちが当たり前に思っている事柄に、新しい見方と知識を与えます。例えば、愛は「不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」(コリント第一13章6~7節)と言われています。そのように、本物の愛は感情のうちに留まるものではなく、正義に立ちながらすべてを肯定するものであると教えています。
 同じく、ヤコブの手紙は「忍耐」について教えています。私たちの日常でも忍耐を強いられる場面は多くあります。キリスト教の長い歴史においても、多くの信仰者が忍耐を強いられてきました。特に日本ではキリシタン時代の信仰の弾圧が思い出されますし、ヤコブ書では旧約聖書のヨブの忍耐(ヤコブ5章11節)に触れています。
 私たちは、いろいろな試錬に会った時に忍耐を強いられます。試錬は決して喜ばしいことではありません。しかし、聖書は「むしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」(ヤコブ1章2節)と言っています。それは、試錬によって「忍耐が生み出される」(ヤコブ1章3節)からだと教えます。つまり、忍耐を得られるのだから試錬を喜ばしく思え、という訳です。
 そして、忍耐は「なんら欠点のない、完全な、でき上がった人」を生み出します。私たちが完成した人となるために、忍耐は十分に働かせることができるものなのだ、というのが聖書の教えです。私たちも聖書の教える広い見方を身につけることができますように。「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求め」(ヤコブ1章5節)ましょう。
 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは、人生の試錬に会う時に、困り果ててしまうことがあります。しかし、聖書は「むしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」と教えています。どうぞ私たちに、試錬に打ち勝つ忍耐を、また忍耐によって得られる成長を与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

讃美歌21・355「主をほめよわが心」

1)主をほめよ わが心
主をほめよ 世の人よ
そのみわざに 秘められた
強い力 深い知恵

2)世のすべて とどまらず
はてしなく 変わり行く
主のことばに したがって
海のなかに 山うつる

3)造られた ものすべて
世の人も 賛美せよ
こずえ高く 鳴く鳥の
歌よひびけ 山こえて

4)主をほめよ わが心
そのみ名に ほまれあれ
主のみわざの 偉大さを
声のかぎり ほめうたえ

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024/01/31

2024年1月28日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・157「いざ語れ主の民よ」
聖書:ヨブ22:21-28

あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。(ヨブ22章21節)

 ヨブ記は、信仰の先人たちによる知恵の言葉を多く含んでいます。その知恵の言葉は、時代が変わろうとも、変わることのない普遍的な真理を語っています。
 ヨブ記は「神と和らいで、平安を得よ」と語りかけています。聖書の神は「全能者」(ヨブ22章3節)であり、隠されたことを暴いて正しくさばく神であり(ヨブ22章13節)、悪を憎み正義を守る神です(ヨブ22章19節)。
 ヨブ記の中心人物であるヨブは、「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」(ヨブ1章1節)と言われる人でした。しかし、非常な苦難がヨブを襲った時、彼は「神はわたしの潔白を知られる」(ヨブ31章6節)と言い、神よりも自分の正しいことを主張しだしました(ヨブ32章2節)。そこで、彼の友人たちは「全能者に立ち返って、おのれを低く」せよと勧めました(ヨブ22章23節)。
 聖書の神は「高ぶる者を低くされるが、へりくだる者を救われ」ます(ヨブ22章29節)。全能の神に対し、人が自らの権利を主張することは得策ではありません。人の力を超える、神の全能の御力を求めるなら、「自らのこがね(宝)をちりの中に置き、全能者を自らのこがねと」しましょう(ヨブ22章25節)。そうすれば、ヨブがちり灰の中で悔い改めた後、神によって回復されたように(ヨブ42章)、時が来れば神が私たちを高く引き上げ、救ってくださいます(ペテロ第一5章6節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは時に思い上がってしまい、周りも自らをも見えなくなってしまうことがあります。ヨブが最後に神の前にへりくだり、神の全能の御力にすがったように、私たちにもただ神の全能によりすがる謙虚さを与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/01/28

讃美歌21・157「いざ語れ主の民よ」

1)いざ語れ 主の民よ
味方なる 神ともに
いまさずば 敵せまり
そのほのお 燃えさかり
わがたましい 飲みつくさん

2)味方なる 神ともに
いまさずば わざわいは
あふれくる 大水の
恐るべき 波となり
わがいのち 押し流さん

3)ほめ歌え 主のみ名を
からみつく 網を裂き
逃れさる 鳥のごと
わがたましい 逃れたり
主のみ名に 助けあり

アーメン

出典:日本キリスト教団出版局『讃美歌21』(インターネット配信について

2024/01/21

2024年1月21日3分メッセージ

賛美歌:讃美歌21・404「あまつ真清水」
聖書:ヨハネ第一1:1-4

わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。(ヨハネ第一1章3節)

 ヨハネの第一の手紙は、その文章がヨハネによる福音書とよく似ています。両方とも文章の中で自分の名前(ヨハネ)を明らかにしていません。また簡単な言葉(いのち、言、等々)を用いて神の真理を表現しています。このことは、この手紙や福音書を書き送った相手が、手紙の書き手にとってごく親しい関係にあり、わざわざ自己紹介するまでもなかったことが考えられます。
 手紙でも、このように書いており、深い信頼関係があったことが感じさせられます。「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。」(ヨハネ第一1章4節)
 ヨハネの第二の手紙ではこのようにも語っています。「あなたがたに書きおくることはたくさんあるが、紙と墨とで書くことはすまい。むしろ、あなたがたのところに行き、直接はなし合って、共に喜びに満ちあふれたいものである。」(ヨハネ第二12節)ヨハネが願うことは直接会って、親しく交わることでした。しかしそのことが叶わないと、ヨハネは親しみを込めて手紙をしたためたのでした。
 このことは、神の言葉といわれる聖書の性格とも共通することです。聖書の神は、聖書を通して読者との深い交わりを求めています。そして、深い交わりを通して「永遠のいのち」(ヨハネ第一1章2節)を与えたいと願われているのです。
 聖書は取っつきにくい書物かもしれません。しかし、聖書に親しむにつれ、そこから単なる知識以上の喜びがあふれてきます。「父ならびに御子イエス・キリストとの交わり」を通して、皆様に豊かな祝福が満ちあふれるようになりますように。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたは私たちとの交わりを求めて、私たちの手に聖書を与えてくださいました。どうぞ、私たちは聖書を読むことを通して、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりに与ることができますように。私たちの心の目を、耳を開いてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)