2021/07/12

2021年7月18日の聖書日課

(写真:ノウゼンカズラ)

コリント第一4:16-20
 4:16 そこで、あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい。
 4:17 このことのために、わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、あなたがたの所につかわした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起させてくれるであろう。
 4:18 しかしある人々は、わたしがあなたがたの所に来ることはあるまいとみて、高ぶっているということである。
 4:19 しかし主のみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、高ぶっている者たちの言葉ではなく、その力を見せてもらおう。
 4:20 神の国は言葉ではなく、力である。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/07/11

2021年7月11日3分メッセージ



 マタイ6章9節をお読みします。
御名があがめられますように。


 この言葉は、イエス・キリストが教えられた「主の祈り」の願いの言葉の最初のものです。多くの願い事を祈るその最初に、キリストは天の父なる神に関する願い事をするように教えられました。
 このことは、聖書の神に受け入れられる祈りの秘訣です。教会で行われる礼拝で、神の御名をほめたたえる「賛美歌」が多く歌われることにも共通することです。
 しかし、「神の御名があがめられる」ことは本来、私たち人間が自由気ままに行えるものではありません。人間が自分の都合で神を祭り上げた時、聖書の神は彼らをその不遜な態度のゆえに罰せられました(サムエル上4章)。また神の御旨に従わない者が神を賛美したとしても、彼の祈りは聞かれることがありません(マタイ7章21~23節)。
 キリストは「主の祈り」の言葉とともに、聖書の神への本物の信仰について教えられました(マタイ6章5~7節)。教えを受けた私たちは、キリストが教えられたとおりに、「天の父の御名があがめられるように」と祈ることが許されています。キリストの大切な教えに感謝しつつ、神の子どもとして天の父に心からの祈りをささげましょう(マタイ11章25節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちに祈りの言葉を教えてくださったことを感謝いたします。私たちは祈りを聞いてくださる方に向かって祈ることを許されました。私たちの祈りを聞き届けてくださる方の御名が、とこしえまであがめられますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/07/05

2021年7月11日の聖書日課

(写真:ムクゲ)

ルカ1:46-50
 1:46 するとマリヤは言った、
「わたしの魂は主をあがめ、
 1:47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
 1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
 1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
そのみ名はきよく、
 1:50 そのあわれみは、代々限りなく
主をかしこみ恐れる者に及びます。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/07/04

2021年7月4日3分メッセージ



 マタイ6章9節をお読みします。
だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、…


 イエス・キリストは祈りについて、いくつかの大切なポイントを教えられました。
 第一に、祈りは人に向けて祈るものではなく、神に向けて祈るものです。教会の集会では代表の祈りがなされることがあります。しかし、祈る時は人にどのように思われているだろうかと考えるべきではありません(マタイ6章5節)。
 しかし、神は確かに祈りを聞いておられます。ですから、祈る時は祈りを聞いておられる神を思い、正直な気持ちで神に訴えるように祈るべきです(マタイ6章6節)。
 第二に、神は私たちの天の父であり、私たちの祈りを親しく聞いておられます。祈りは、自分勝手な欲望を実現するための呪文ではありません。神は私たちの祈りの内容以上に、私たち自身のことに関心を持っておられます。もし私たちの心のうちに天の父である神ご自身を思う思いがなければ、祈りが聞かれるはずがありません(マタイ6章7節)。
 第三に、私たちは感謝の心をもって祈るべきです。祈りというものは自然にできるものではありません。むしろ助けを求める必死な思いから祈りは生まれてきます。キリストは、助けを求めて祈りたいと願う私たちのために「主の祈り」の言葉を教えられました(ルカ11章1節)。私たちの祈りを聞かれ、また私たちに祈りの言葉をも教えられた神に、感謝をもって祈りをささげましょう。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは日々生きていく中で様々な助けを必要としています。その助けを与えてくださる神がおられること、また私たちの口に祈りの言葉を与え、私たちの祈りを聞いてくださることを心より感謝します。どうぞ今日も私たちの祈りを聞き届けてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/07/01

2021年7月4日の聖書日課

(写真:ノアザミ)

列王記上8:27-30
 8:27 しかし神は、はたして地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。
 8:28 しかしわが神、主よ、しもべの祈と願いを顧みて、しもべがきょう、あなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。
 8:29 あなたが『わたしの名をそこに置く』と言われた所、すなわち、この宮に向かって夜昼あなたの目をお開きください。しもべがこの所に向かって祈る祈をお聞きください。
 8:30 しもべと、あなたの民イスラエルがこの所に向かって祈る時に、その願いをお聞きください。あなたのすみかである天で聞き、聞いておゆるしください。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/06/30

2021年6月20日(日) 献堂67周年記念礼拝

成尾輝和師
  今年は志村キリスト教会の献堂67周年です。昨年は教会員のみの記念礼拝でしたが、今年は2年ぶりに特別講師をインターネット(ZOOM)でお迎えしました。講師はいわきアッセンブリー教会の成尾輝和師、志村教会に11年前、成尾師が神学生として来会された以来のことです。

2021/06/27

2021年6月27日3分メッセージ



 マタイ6章20節をお読みします。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。


 皆様にとっての宝とは何でしょうか。とても高価な財産であるかもしれませんし、高価でなくても自分にとって最高の満足を得られるものかもしれません。あるいは、大切な家族、友人だ、と言われる方もあると思います。
 イエス・キリストは宝についていくつかのことを教えています。宝は何であるにしても、「宝のある所には、心もある」(マタイ6章21節)と言っています。言わば宝とは、私たちが大切に思って自らの心を注ぎ出すものです。
 だからこそ、自らの心を守るためにも宝について慎重に考えるべきです。もし宝が失われてしまうなら、私たちの心も失われてしまい、人生の意味をも見失ってしまうこともありえます。ですから、キリストは「地上に宝をたくわえてはならない」と教えています(マタイ6章19節)。
 聖書の神は私たちの存在そのものを大切に思っておられます。そのために、私たちが日々生きるために必要なものを与えてくださいます。だから、キリストは「思いわずらうな」と語りかけています(マタイ6章25~33節)。この世の生活について思い煩うのではなく、神によって守られており、決して失われることのない天のもので心を満たしなさいという意味で、「天に宝をたくわえなさい」と教えているのです。皆様の日々の生活が聖書の神によって支えられますように。また皆様の心が天の恵みで満たされますように。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの住む地上には様々な不安があります。しかし、失われていくものではなく、決して失われることのない、天の恵みに目を止めさせてください。私たちの心の目を明るくしてください(マタイ6章22節)。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)