(写真:カキツバタ)
詩篇67篇
聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせた歌、さんび
67:1 どうか、神がわれらをあわれみ、われらを祝福し、
そのみ顔をわれらの上に照されるように。〔セラ
67:2 これはあなたの道があまねく地に知られ、
あなたの救の力がもろもろの国民のうちに
知られるためです。
67:3 神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、
もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。
67:4 もろもろの国民を楽しませ、
また喜び歌わせてください。
あなたは公平をもってもろもろの民をさばき、
地の上なるもろもろの国民を導かれるからです。〔セラ
67:5 神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、
もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。
67:6 地はその産物を出しました。
神、われらの神はわれらを祝福されました。
67:7 神はわれらを祝福されました。
地のもろもろのはてにことごとく
神を恐れさせてください。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/06/07
2021/06/06
2021年6月6日3分メッセージ
エゼキエル18章31節をお読みします。
あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。
エゼキエル書は、他国バビロンとの戦いに負け、土地を奪われて捕囚の憂き目にあった「バビロン捕囚」のイスラエル人に語られた言葉です。共に捕囚の身である預言者エゼキエルは、不思議な幻を伴った神の預言の言葉をイスラエル人に語り伝えました(エゼキエル1章1~3節)。
イスラエル人たちは「間もなく母国のイスラエルに帰ることができる」と期待していましたが、その期待は何年も裏切られ続けました。彼らの信仰心は曇り、彼らの言葉は失望のことわざに変わってしまいました(エゼキエル18章2節)。さらに彼らは主なる神に対し、「主のおこないは正しくない」というような文句まで言うようになってしまいました(エゼキエル18章25節)。
イスラエル人たちは目の前の苦境しか考えることができなくなってしまいました。そして、自ら神の民であると自覚しつつも、人をそのおこないによって正しくさばく聖書の神を考えることができなくなってしまったのです(エゼキエル18章30節)。
聖書の神は「何人との死をも喜ばない」神であり、「翻って生きよ」と言われる情け深い神です(エゼキエル18章32節)。しかし、神に選ばれた民であるイスラエル人や、あるいは信仰深いクリスチャンであったとしても、私たち人間は非常な苦難にあった時に、人間として決して忘れてはならない大切なことをも忘れてしまうような弱い存在です。
しかし、聖書の神は私たちの弱さを知ってこのように語られています。「あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。」神は苦難の最中にある者をも助け出そうとされるお方です。神が与えると約束される「新しい心」(エゼキエル36章26節)を受け取って、私たちは心を改めて神の救いに与りたいと思います。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちは苦しい状況に追いつめられた時、自らを失ってしまうように物事を正しく見ることができなくなることがあります。そのような時にも、私たちの心を支えてください。神が約束される新しい心、新しい霊によって正しい道に立ち返って歩むことができますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/06/01
2021年6月6日の聖書日課
(写真:シラン)
エゼキエル18:25-32
18:25 しかしあなたがたは、『主のおこないは正しくない』と言う。イスラエルの家よ、聞け。わたしのおこないは正しくないのか。正しくないのは、あなたがたのおこないではないか。
18:26 義人がその義を離れて悪を行い、そのために死ぬならば、彼は自分の行った悪のために死ぬのである。
18:27 しかし悪人がその行った悪を離れて、公道と正義とを行うならば、彼は自分の命を救うことができる。
18:28 彼は省みて、その犯したすべてのとがを離れたのだから必ず生きる。死ぬことはない。
18:29 しかしイスラエルの家は『主のおこないは正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしのおこないは、はたして正しくないのか。正しくないのは、あなたがたのおこないではないか。
18:30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。
18:31 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
18:32 わたしは何人との死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
エゼキエル18:25-32
18:25 しかしあなたがたは、『主のおこないは正しくない』と言う。イスラエルの家よ、聞け。わたしのおこないは正しくないのか。正しくないのは、あなたがたのおこないではないか。
18:26 義人がその義を離れて悪を行い、そのために死ぬならば、彼は自分の行った悪のために死ぬのである。
18:27 しかし悪人がその行った悪を離れて、公道と正義とを行うならば、彼は自分の命を救うことができる。
18:28 彼は省みて、その犯したすべてのとがを離れたのだから必ず生きる。死ぬことはない。
18:29 しかしイスラエルの家は『主のおこないは正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしのおこないは、はたして正しくないのか。正しくないのは、あなたがたのおこないではないか。
18:30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。
18:31 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
18:32 わたしは何人との死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/05/30
2021年5月30日3分メッセージ
マタイ11章30節をお読みします。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
イエス・キリストはこのように言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)この言葉は多くの人に愛好されている聖句の一つです。
冒頭の言葉は、この「重荷を負う者を休ませる」という言葉の後に続くものです。それは、キリストが約束する「魂の休み」(マタイ11章29節)を説明しています。
キリストは、重荷を負う者の重荷を、代わって負うと言われている訳ではありません。キリストは「わたしのくびきを負う」ようにと言って、私たちに勧めています(マタイ11章29節)。「くびき」とは、家畜の首に負わせる道具です。すなわち、キリストは重荷を負う者と一緒になって重荷を負うと言われているのです。
私たちの人生には様々な重荷があり、人生に苦労はつきものです。このような人生の重荷を投げ捨てて行くことはできません。しかし、キリストは私たちの人生の苦労を一緒に負ってくださると言われているのです。キリストの力強い助けを得られれば、私たちの人生には安らぎがやってきます。
キリストは「いつもあなたがたと共にいる」と約束されています(マタイ28章20節)。人生の苦しみを知っておられるキリストに信頼してまいりましょう。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。私たちは多くの重荷を負っています。今、私たちはキリストの呼びかけに従ってまいります。どうぞ私たちの荷を軽くしてくださり、私たちの魂に安らぎを与えてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/05/24
2021年5月30日の聖書日課
(写真:ムベ)
マタイ11:25-30
11:25 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
11:26 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。
11:27 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
マタイ11:25-30
11:25 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
11:26 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。
11:27 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/05/23
2021年5月23日3分メッセージ
使徒2章1節、2節をお読みします。
五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
「五旬節の日」とは聖書の民イスラエル人の祭りの日であり、「ペンテコステ」とも言われます。私たち、志村キリスト教会の所属している「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド」という団体はペンテコステ派の教会であり、ペンテコステは特に重要な祭りの一つです。
キリストの十字架、復活、昇天の出来事の後、キリストの弟子であるクリスチャンたちは、一つの家に集まってひたすら祈り続けていました(使徒1章14節)。彼らの心には様々な思いがあったと思います。同時に、彼らの心にはキリストとの大切な思い出がありました。彼らのうちにはキリストのこのような言葉が響いていたはずです。「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1章15節)。
ペンテコステの日、キリストの弟子たちが体験したことは、まさにキリストが約束していた出来事でした。それは「聖霊のバプテスマ」という体験です。彼らは喜びに満ち溢れました(使徒2章28節)。そして、キリストの約束通りに力を受けて、一つの所に留まり続けるのではなく、外に出て行ってキリストの福音を宣べ伝え始めました(使徒1章8節)。
そして、約2千年前にエルサレムから始まった福音宣教が今に至り、世界中に教会やクリスチャンが存在するようになりました。今の時代もなお、キリストが約束した力はすべての人のために用意されています。皆様もペンテコステの恵みに与ることができますように、祝福をお祈りいたします。
ご一緒にお祈りいたしましょう。
天の父なる神様。キリストは「聖霊のバプテスマを受けることができる」と約束されました。キリストの弟子たちが約束の力に満たされたように、私たちにも聖霊の力を注いでください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2021/05/17
2021年5月23日の聖書日課
(写真:フジ)
使徒2:1-11
2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
2:5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
2:6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
2:7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
2:8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
2:9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
2:11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
使徒2:1-11
2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
2:5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
2:6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
2:7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
2:8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
2:9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
2:11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
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