2020/08/01

2020年8月2日の聖書日課


(写真:オトギリソウ)

列王紀上17:8-16
 17:8 その時、主の言葉が彼に臨んで言った、 17:9「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。
 17:10 そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。
 17:11 彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。
 17:12 彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。
 17:13 エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。
 17:14 『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。
 17:15 彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。
 17:16 主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/26

2020年7月26日3分メッセージ



 ヨハネ6章19節、20節をお読みします。
四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。

 ヨハネ6章は、キリストが「パン五つと、さかな二ひき」によって五千人以上の人々のお腹を満たした「奇跡」を伝えています(ヨハネ6章1~14節)。その後、キリストは人々と別れて祈りのため山にこもり(マタイ14章23節)、弟子たちは湖(ガリラヤの海)を舟で渡って家路につきました。
 ところが、湖が強い風のため急に荒れ出して、弟子たちの乗り込んだ舟が転覆しそうになりました。そのところに、キリストが湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいてくる「奇跡」が起きたのです。
 このように、弟子たちはパンの「奇跡」の後に、湖の「奇跡」を見ました。そして、このことは、キリストが私たちに伝えようとされる同じ一つの「しるし」を意味しています(ヨハネ6章14節)。
 キリストが伝えようとしたのは「わたしは命のパンである」(ヨハネ6章48節)ということです。先にはパンで空腹をいやし、後には水の難から救い出し、両方とも人に命を与えるお方であることをキリストは示されました。
 キリストは、「子(キリスト)を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得る」と語られました(ヨハネ6章40節)。キリストの約束される「命」が、私たちの願いが叶えられるという望ましい状況の中だけではなく、私たちの願わない災難の中にも「命」が見いだされることを、皆様も知ることができますようにと願います。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。多くの人々はお腹を満たすパンだけを求め、弟子たちはキリストの奇跡を見て恐れました。しかし、キリストは「命のパン」であると語られます。私たちは良い時にも悪い時にも、キリストが私たちに永遠の命を与えるお方であることを知ることができ、どんな状況にあっても恐れず、前進することができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/20

2020年7月26日の聖書日課



(写真:ヤブカンゾウ)

ヨハネ6:16-21
 6:16 夕方になったとき、弟子たちは海べに下り、
 6:17 舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた。すでに暗くなっていたのに、イエスはまだ彼らのところにおいでにならなかった。
 6:18 その上、強い風が吹いてきて、海は荒れ出した。
 6:19 四、五十丁こぎ出したとき、イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。
 6:20 すると、イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」。
 6:21 そこで、彼らは喜んでイエスを舟に迎えようとした。すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/19

2020年7月19日3分メッセージ



 使徒24章14節、15節をお読みします。
ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。

 使徒行伝24章は、キリストの使徒パウロが、ユダヤを統治するローマ帝国の総督の裁きを受けた出来事を報告しています。パウロは被告人であり、原告はパウロと同じユダヤ人でした。
 訴えの内容は宗教上の問題でした。それは本来、総督が裁判として取り扱わない案件でした(使徒18章12~16節)。さらに原告のユダヤ人たちの訴えは根拠の弱いものであり(使徒21~23章参照)、パウロにとって不当な裁判でした。
 しかし、このパウロの仕打ちは、キリストの言葉と生涯を思い起こさせます。キリストは弟子たちに対してこのように語りました。「人々はあなたがたに手をかけて迫害をし、会堂や獄に引き渡し、わたしの名のゆえに王や総督の前にひっぱって行くであろう。」(ルカ21章12節)またキリストご自身が総督ピラトに引き渡され、不当な裁判により十字架にかけられたのでした(マタイ27章参照)。
 キリストが語った言葉には約束も伴っています。それは、裁判に引き出されるその時、語るべき言葉が与えられるであろう、ということです(ルカ21章13~15節)。キリストは不当な裁判の結果、人類のための救いとなりました。パウロは裁判の後も命永らえて、新しい土地に送られて人々を教え、新約聖書に多くの手紙を書き残しました。
 聖書の神は「神を愛する者たち」のため、「万事を益となるようにして下さる」お方です(ローマ8章28節)。私たちの苦難を益に変えてくださる神を仰いでまいりましょう。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちの目の前に苦難と見えるものがあります。万事を益へと変えられる神様。私たちがこの所から前に進めるように、希望の御言葉をください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/13

2020年7月19日の聖書日課



(写真:ギボウシ)

使徒24:10-21
 24:10 そこで、総督が合図をして発言を促したので、パウロは答弁して言った。
「閣下が、多年にわたり、この国民の裁判をつかさどっておられることを、よく承知していますので、わたしは喜んで、自分のことを弁明いたします。
 24:11 お調べになればわかるはずですが、わたしが礼拝をしにエルサレムに上ってから、まだ十二日そこそこにしかなりません。
 24:12 そして、宮の内でも、会堂内でも、あるいは市内でも、わたしがだれかと争論したり、群衆を煽動したりするのを見たものはありませんし、
 24:13 今わたしを訴え出ていることについて、閣下の前に、その証拠をあげうるものはありません。
 24:14 ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、
 24:15 また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。
 24:16 わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています。
 24:17 さてわたしは、幾年ぶりかに帰ってきて、同胞に施しをし、また、供え物をしていました。
 24:18 そのとき、彼らはわたしが宮できよめを行っているのを見ただけであって、群衆もいず、騒動もなかったのです。
 24:19 ところが、アジヤからきた数人のユダヤ人が――彼らが、わたしに対して、何かとがめ立てをすることがあったなら、よろしく閣下の前にきて、訴えるべきでした。
 24:20 あるいは、何かわたしに不正なことがあったなら、わたしが議会の前に立っていた時、彼らみずから、それを指摘すべきでした。
 24:21 ただ、わたしは、彼らの中に立って、『わたしは、死人のよみがえりのことで、きょう、あなたがたの前でさばきを受けているのだ』と叫んだだけのことです」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/12

2020年7月12日3分メッセージ



 ホセア14章1節をお読みします。
イスラエルよ、あなたの神、主に帰れ。

 聖書の神は、神の民であるイスラエルに対して、家出した子どもを呼び戻すように「帰れ」と呼びかけています。
 聖書は度々、家出のたとえを用いて私たちに語りかけます。新約聖書でも「放蕩息子」のたとえ話があります。息子は父親から財産をもらって実家を飛び出しましたが、財産をすべて放蕩して使い果たしてしまいました。それから息子は困窮の末に実家に帰るのですが、父親は大喜びでこの息子を家に迎えました(ルカ15章11~32節)。
 ホセア書の冒頭には大変印象深い出来事が語られています。預言者ホセアはゴメルという女性と結婚しました。しかし、ゴメルはホセアから離れて、不道徳な生活をして身を持ち崩し、身売りする立場となってしまいます。そのようなゴメルを、夫のホセアは金を払って身受けするのでした(ホセア1~3章)。
 この放蕩息子やゴメルのように、期待に背いて自分勝手に家を飛び出してしまうような者であっても、聖書の神は彼らが正しい立場に立ち返ることを願っています。これらのたとえ話は、私たちに向けられた神の熱い思いを語っています。
 聖書の神はゆるしの神であり、いやしの神です(ホセア14章4節)。現状は悲惨な状況であり、それは自分に落ち度があったためだと気づいている人は、悔い改めを促す神の呼び声を聞いて、神の救いを求めましょう。悔い改める人に、神は助けの御手を伸べてくださいます。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。あなたは家出した子に対し「帰れ」と呼びかけておられます。私たちの心にこの神の呼び声を聞くとき、その時、私たちは素直に神のもとに立ち返ることができますように。行くべき道を見失っているすべての人が、神のもとに帰ることができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/07/06

2020年7月12日の聖書日課


(写真:ホウセンカ)

ホセア14:1-7
 14:1 イスラエルよ、
あなたの神、主に帰れ。
あなたは自分の不義によって、つまずいたからだ。
 14:2 あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、
「不義はことごとくゆるして、
よきものを受けいれてください。
わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。
 14:3 アッスリヤはわたしたちを助けず、
わたしたちは馬に乗りません。
わたしたちはもはや自分たちの手のわざに向かって
『われわれの神』とは言いません。
みなしごはあなたによって、
あわれみを得るでしょう」。
 14:4 わたしは彼らのそむきをいやし、
喜んでこれを愛する。
わたしの怒りは彼らを離れ去ったからである。
 14:5 わたしはイスラエルに対しては露のようになる。
彼はゆりのように花咲き、
ポプラのように根を張り、
 14:6 その枝は茂りひろがり、
その麗しさはオリブの木のように、
そのかんばしさはレバノンのようになる。
 14:7 彼らは帰って来て、わが陰に住み、
園のように栄え、
ぶどうの木のように花咲き、
そのかんばしさはレバノンの酒のようになる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)