2020/04/05

2020年4月5日3分メッセージ



 ヨハネ18章37節をお読みします。
そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。

 今週は、イエス・キリストがローマ帝国の代官、ポンテオ・ピラトの命令によって十字架にかけられたことを記念する受難週にあたります。
 キリストを捕らえてピラトのもとに送ったのは、キリストと同族の民であるユダヤ人たちでした。ユダヤ人にはユダヤ人の王がいましたが、ユダヤの王国はローマ帝国の支配下にあり、死刑等の重大な決定はローマ帝国の指示を仰がなければなりませんでした(ヨハネ18章31節)。
 ユダヤ人たちは「この人はユダヤ人の王と自称していた」(ヨハネ19章21節)と言ってキリストを訴えました。そのため、ピラトはキリストに対し、王であるかどうかを尋ねたのでした。しかし、ピラトの本音は、支配民たちの面倒ごとから早く逃れたいというものでした(ヨハネ18章38節)。
 ピラトの尋問に対し、キリストは自分の支配する王国が地上のものではなく、ローマ帝国やユダヤ王国に反逆するものではないことを語ります(ヨハネ18章36節)。しかし、キリストは言うなれば「真理をあかしする王」であり、キリストの王国の民は彼の真理の言葉に聞き従う者であると言うことになります。キリストの王国民とは、すなわちクリスチャンのことです(第一ペテロ2章9節)。
 このことからわかる通り、イエス・キリストの十字架の死はピラトの願う所ではありませんでした。そのことは、キリストが予告した言葉の通りに実現したことであり、それは全人類の救いを目的とした神の意志に基づくことです(ヨハネ3章17節)。

 キリストが十字架で苦しまれたのは、様々な悩みに苦しんでいる私たち人類のためです。今日も私たちが抱いている様々な苦しみを思いつつ、イエス・キリストの救いを求めてお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今この時も、世界中の人々が様々な悩み、苦しみに喘ぎつつ、キリストの受難週を迎えています。キリストはこう語られました。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。私たちはこの言葉を真理であると信じて、キリストによる救いを求めます。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年4月5日の聖書日課

(写真:ハナカイドウ)

ヨハネ18:28-40
 18:28 それから人々は、イエスをカヤパのところから官邸につれて行った。時は夜明けであった。彼らは、けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった。
 18:29 そこで、ピラトは彼らのところに出てきて言った、「あなたがたは、この人に対してどんな訴えを起すのか」。
 18:30 彼らはピラトに答えて言った、「もしこの人が悪事をはたらかなかったなら、あなたに引き渡すようなことはしなかったでしょう」。
 18:31 そこでピラトは彼らに言った、「あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい」。ユダヤ人らは彼に言った、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」。
 18:32 これは、ご自身がどんな死にかたをしようとしているかを示すために言われたイエスの言葉が、成就するためである。
 18:33 さて、ピラトはまた官邸にはいり、イエスを呼び出して言った、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。
 18:34 イエスは答えられた、「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。
 18:35 ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」。
 18:36 イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。
 18:37 そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。
 18:38 ピラトはイエスに言った、「真理とは何か」。こう言って、彼はまたユダヤ人の所に出て行き、彼らに言った、「わたしには、この人になんの罪も見いだせない。
 18:39 過越の時には、わたしがあなたがたのために、ひとりの人を許してやるのが、あなたがたのしきたりになっている。ついては、あなたがたは、このユダヤ人の王を許してもらいたいのか」。
 18:40 すると彼らは、また叫んで「その人ではなく、バラバを」と言った。このバラバは強盗であった。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/04/03

2020年4月3日(金) インターネット礼拝情報

全国的に感染症の拡大防止への協力が求められています。
志村キリスト教会の近隣でもインターネットを用いた特別な礼拝対応に
取り組んでいる教会・団体がありますのでご紹介いたします。

パブリックドメインの聖書(Wikisource)

◆キリスト教テレビ番組「ライフ・ライン
一部の過去放送を動画で視聴できます。

◆キリスト教ラジオ番組「世の光
※ホームページから番組を聴取できます。

◆礼拝の動画や音声を公開している教会
※緊急対応のため公開が停止される場合があります。
志村キリスト教会(日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団)
神召キリスト教会(日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団)
インマヌエル板橋キリスト教会(イムマヌエル綜合伝道団)
キリスト兄弟団成増教会(基督兄弟団)
高島平キリスト教会(日本キリスト改革派教会)
日本キリスト合同教会板橋教会(日本キリスト合同教会)
蓮沼キリスト教会(日本長老教会)
北赤羽キリスト教会(日本同盟基督教団)
徳丸町キリスト教会(日本同盟基督教団)
赤塚バプテスト教会(日本バプテスト連盟)
常盤台バプテスト教会(日本バプテスト連盟)
蓮根バプテスト教会(日本バプテスト連盟)

2020/03/29

2020年3月29日3分メッセージ



 第一コリント15章51節をお読みします。
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。

 私たちは時に「眠り」をたとえ言葉として用います。すなわち、「死」を意味する言葉として用いて、たとえば「永遠の眠りにつく」と言ったりします。聖書でもしばしば同じ意味で「眠り」について語られています。
 しかし、聖書において特に注目すべきなのは、眠りはやがて目覚める時が来るように、死についても目覚めの時が来ることを語っていることです。ですから、先ほどの聖書箇所でも、「わたしたちすべては、眠り続けるのではない」と語っているのです。
 すべての人間は必ず死ぬことが定められています(ヘブル9章27節)。しかし、死んでしまえばすべて終わりで、消えて無くなってしまうものではありません。人がそのひと本人であることを示す霊魂は決して消滅することはない、と聖書は教えています(ルカ23章46節)。人が死んで、その体が失われることがあっても、眠った人がやがて目覚めるように、死んだ人も神によって定められた時が来ると、新しい体を与えられて復活すると聖書は語り、約束しているのです(第一コリント15章44節)。
 この聖書の約束の根拠であるのが、イエス・キリストの十字架の死とイースターにおける復活です。今年も迎えるイースターにあたり、聖書が約束している言葉のその通りの意味を深く味わってまいりましょう。私たちはキリストを信じる信仰により、「朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられる」のです(第一コリント15章52節)。
 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。今日も私たちは世界のあらゆるところで、死について考えさせられ、時に恐怖におびえることがあります。私たちは聖書に勧められる通り、時が良くても悪くても「絶えず祈る」者でありたいと思います。眠っている者を目覚めさせると言われる、神の約束の言葉に生ける希望を見いださせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/03/24

2020年3月24日(火) 新河岸川の桜

教会近くの新河岸川の桜並木が見ごろを迎えています。教会では定例集会を休まずに行っています。今年のイースター(4月12日)も定例の主日礼拝の中で行います。世界中の人々の生活が守られますようにお祈りいたします。

2020/03/23

2020年3月29日の聖書日課

(写真:ギョリュウバイ)

第一コリント15:51-58
 15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
 15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
 15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
 15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
 15:55 「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
 15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
 15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
 15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020年3月22日3分メッセージ



 ヨハネ12章3節をお読みします。
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。

 イエス・キリストはマルタの家で夕食の接待を受けていました。マルタには妹のマリヤと弟のラザロがいました。ラザロは死んだ後、キリストによってよみがえらされた奇跡を体験した人でした(ヨハネ11章)。彼らはキリストと親しく交流する間柄でした。
 その日、マリヤは高価な香油を持ってきて、キリストの足に注ぎかけました。彼らのいた家には香油のかぐわしいかおりとともに、非常な驚きも広がりました。マリヤが注ぎだした香油は、彼女の全財産に匹敵する価値があるものでしたが、それを彼女は惜しげもなく注ぎだしたからです。
 しかし、マリヤにとっては高価な香油を使い果たしたこと以上の深い意味がありました。それは、キリストとの家族ぐるみの深い関係から理解すべきことであり、マリヤの感謝の気持ちはお金では決して表すことのできないものだからです。その感謝の思いを、マリヤはあえてキリストの足に注ぎだしました。この足が、キリストの良き言葉と良き業をマリヤの一家にもたらしたものであったからです(ローマ10章15節)。
 それから六日後、キリストはマリヤの香油のかおりを携えて十字架につきました。マリヤが感謝したキリストの足取りは彼らの元に留まることなく、全人類のために歩き出したのでした。マリヤの香油はキリストの救いの業のはなむけとして確かに用いられたのでした。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストの十字架の苦しみを覚えるこの受難の時期、私たちは世界中の人々とともに苦しみを覚えています。今この時、私たちはマリヤが見出だしたように、キリストのうちに幸いを見出だすことができますように。キリストの十字架のうちに、私たちの安らぎを見出だすことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)