証詞・信仰体験記 荒井康泰
私は教会へ行ったのは小学校五年の時が初めてであった。兄が救われ、姉が救われ、二人の生れ変っている生活を見て、自分も教会へ行ってみたいと思ったのである。歌のすきであった私は教会の賛美歌も魅力であった。しかし、勇気のない自分には教会へ入ることが出来なかった。姉につれられて行ったのが教会の初めての集会であった。それから中学三年までかよい続けたが、キリストの救いをもっていなかった。その後、教会から離れるようになり、人生についても考えるようになり、何のために生きているのか?何が人生の目的であり、何をたよりに生きているのか?ということが問題になり、悩みながら四年すぎていくある日、友人と共に教会に再び出席した。説教の中でただ一つの御言が私の心にひびいた。それは「私は道であり、真理であり、生命である」という御言で、特にキリストこそ道であり、これが人生の目的であり、生きがいであるのだということを知らされ、熱心に、神を求め続けた。一年間の週三回の集会も休まないで出席したことを記憶している。
ある伝道会に、救われたいという飢え渇きをもって熱心に悔改めたとき、私の心の中に、今までにない光と喜びが湧きあがり、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(第二コリント五・一七)というこの聖書の御言が私の心にひらめき、私は救われ新しくされ、清められたと実感し、確信した。
さらに素晴らしいことは、聖霊のバプテスマを受け、聖霊に満たされ、一時間位満たされつづけ、それからというものは、キリストに対する伝道と奉仕の意欲がわいてきたのです。
現在の私の心の中には、キリストによる救いの喜びが満ちあふれ、六年間たった今なお祈るとき、同じこのすばらしい恵みを与えられていることをおぼえて、苦しい中にも毎日感謝して生活している。
※鷲志第6号(1968年5月12日発行)
