2025/11/02

「教会十年の歩み」(1965年)より

祈り伝道する教会 牧師 松崎実也

『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい』。

 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。  使徒行伝四章二九~三一節

 私どものおかれている時代は、二十世紀の後半、宇宙ロケットのとびかう時代、月旅行も夢ではなくなった時代である。果してこういう時代に、見えざる神を信ずることに意義があるのだろうか。しかり、如何に科学が進歩し、文化生活を営むようになったとはいえ、人の心は昔も今も変らない。罪と不安と絶望の中にある、ただそれを目先の快楽でまぎらわせているにすぎない。

 私ども、この時代に生きる教会、キリスト者のなすべきことは何か。それは永遠に変ることのない神の言に信仰をおいて、祈り伝道することである。もし新しいことが起るとすれば、それは、神の言と祈りと信仰とによって、上より、聖霊のみわざとして起るであろう。決して人間の考え出したテクニックや対策からではない。我らは時代にさからって祈り伝道する教会を目ざして進もう。

※教会十年の歩み(1965年6月25日発行)

2025年11月2日「神の御前での食事」

出エジプト24:5-11
 24:5 イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。
 24:6 その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。
 24:7 そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。
 24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。
 24:9 こうしてモーセはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共にのぼって行った。
 24:10 そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。
 24:11 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。

 出エジプト記は、神の民イスラエルの誕生を物語ります。彼らには先祖伝来の信仰がありましたが、信仰をどのように守るべきかを教える「宗教」はありませんでした。その宗教を教えるのが「律法」であり、「契約の書」(:7)です。

 祭司が定められる前、モーセは若者たちに燔祭等の務めを任せました(:5)。モーセは民に律法順守を誓わせ(:7)、契約の血を注ぎかけました(:8)。その後、七十人の長老たち(:9)とともに神を仰ぎ見(:10)、神の御前で食事をしました(:11)。こうしてイスラエルの民は、律法を授かるにあたり、礼拝方法を実体験によって学びました。

 この出来事は、キリストの聖餐式(ルカ22:19-20)のひな形の一つとなりました。律法が神の民に礼拝方法を教えたように、聖餐式はキリストの十字架による贖いのわざを、パンを食べ、ぶどうを飲むことによって体験させます。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」(コリント第一11:26)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)