2024/07/28

2024年7月28日の聖書日課

(オモダカ)

マタイ20:1-16
 20:1 天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
 20:2 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
 20:3 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
 20:4 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。
 20:5 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
 20:6 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
 20:7 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
 20:8 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
 20:9 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
 20:10 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
 20:11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして
 20:12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
 20:13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
 20:14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
 20:15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
 20:16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/07/25

聖書の教理~(16)キリストの働き

 イエス・キリストの福音の中心は、キリストが行われた働き(御業)です(コリント第一15:1-11)。キリストが数多くなされた働きのうち、三つのことを取り上げます。

 a)キリストの死:キリストは十字架にかかり死なれました。それはキリストを信じる者の罪をあがなうため(ヘブル9:15)、そして彼らに永遠の命を得させるためです(ヨハネ3:16)。キリスト、また彼を信じるクリスチャンにとって、キリストの死は終わりではなく、新しい命の始まりです。

 b)キリストの復活:キリストは死んで葬られた後、三日目によみがえりました。その事実は、キリスト一人だけに留まるものではなく、クリスチャンにも及ぶ復活の希望の根拠となります(コリント第一15:19-20)。その復活の証拠として示されたのは空の墓でした(ヨハネ20:24-29)。まさに「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)と言われている通りです。

 c)キリストの昇天:キリストは弟子たちが見ている前で天に上げられ、姿が見えなくなりました(使徒1:9)。そのことは、キリストがもはや地上の見える存在ではなく、今も天において救いのため働いておられることを示しています。そして、私たちのうちに宿られる神の御霊によって、私たちもキリストと同じ天上の命によって生かされています(ローマ8:9-11)。

 キリストはこのような約束を与えておられます。「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。…ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:18-20)。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/07/21

2024年7月21日の聖書日課

(ツユクサ)

ヨハネ10:7-16
 10:7 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
 10:8 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
 10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
 10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
 10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
 10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
 10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
 10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
 10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
 10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/07/18

聖書の教理~(15)キリストの職務

 「キリスト」という言葉は「神から油注がれた者」を意味します(使徒4:27)。油注ぎは、特に旧約聖書時代において預言者(列王紀上19:16)、祭司(出エジプト28:41)、王(サムエル上10:1)の任命式において行われました。イエス・キリストはこれらの三つの職務を担われています。

 a)預言者としてのキリスト:キリストは当時の人々から預言者とみなされていました(マタイ21:11)。キリストは預言者として救いの福音を告げ(ルカ4:18-19)、天国(神の国)を告げ(マタイ4:17)、将来の出来事を告げました(ヨハネ14:29)。

 b)祭司としてのキリスト:キリストは地上の祭司ではありませんでしたが、天上の祭司として今も働いておられます。祭司は民の罪のあがないのための奉仕を担います。キリストは全人類の罪のあがないのために人と同じになられました(ヘブル2:17)。また、罪のあがないしろとして自ら犠牲となり(ヘブル9:12)、今も天において人々のためとりなしをしておられます(ヘブル7:25)。

 c)王としてのキリスト:キリストは神により永遠の祭司また王として任命されました(詩篇110:4)。キリストは永遠の王権を約束されたダビデの子孫であり(エゼキエル37:25)、きたる再臨の時、キリストは王として地上に来られて王座につかれます(マタイ25:31)。

 キリストの言葉と御業の力強さが示す権威は、神から「油注がれた者」としての権威です。「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。』」(マタイ28:18)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/07/14

2024年7月14日の聖書日課

(ベニバナ)

ルカ15:11-24
 15:11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。
 15:12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。
 15:13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
 15:14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
 15:15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
 15:16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
 15:17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
 15:18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
 15:19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
 15:20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
 15:21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
 15:22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
 15:23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
 15:24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/07/11

聖書の教理~(14)キリストの性質

 イエス・キリストは「あなたがたはわたしをだれと言うか」(マタイ16:15)と尋ねられました。キリストについて人々が様々に言う時、その言葉はその人々が見取ったキリストの性質(本質)を表現します。聖書はキリストをいくつかの呼び名で呼び、その名で神が明らかにした(啓示した)キリストの性質を示しています。

 a)神の子:「これはわたしの愛する子」(マタイ3:17、27:54)

 b)ことば:「神は…御子によって、わたしたちに語られた」(ヘブル1:1-2、ヨハネ1:1)

 c)主:「イエスを、神は、主…としてお立てになった」(使徒2:36)

 d)人の子:「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっている」(マタイ9:6)

 e)キリスト:「わたしを聖別してくださった」(ルカ4:18)=「主がわたしに油を注いで」(イザヤ61:1)

 f)ダビデの子:「神は彼に父ダビデの王座をお与えになり」(ルカ1:32)

 g)イエス:「イエスと名づけなさい。彼は…罪から救う者」(マタイ1:21)

 現代でもキリストは、人々の心の思いを投影するように、様々に語られています(マタイ16:13-14)。しかし、天から示された救いの御業をキリストに期待するなら、私たちは聖書の教えに耳を傾けるべきです。「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。』」(ヨハネ14:6)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/07/07

2024年7月7日の聖書日課

(ヒツジグサ)

マルコ4:2-9
 4:2 イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、
 4:3 「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。
 4:4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
 4:5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
 4:6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
 4:7 ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。
 4:8 ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。
 4:9 そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/07/04

聖書の教理~(13)罪の結果

 聖書が教える「罪」の性質はその呼び名に表れています。

 聖書の「罪」という言葉の元々の意味は「的はずれ」です。旧約聖書のヘブル語ではハタート(創世記4:7等)、新約聖書のギリシャ語ではハマルティア(ペテロ第一2:24等)と言います。「われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼(キリスト)の上におかれた。…彼は多くの人の罪(ハタート)を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(イザヤ53:6,12)

 そのほか、罪に関連する言葉として悪(創世記6:5)、暴虐(創世記6:11)、汚れ(レビ11:24)、曲ったこと(箴言4:24)、負債(マタイ6:12)、不従順(ヘブル2:2)、不法(ヨハネ第一3:4)があり、それぞれ罪を犯すことのないように戒められています。

 罪を犯した結果はのろわれています。罪は人間の基である「神のかたち」を壊し(ヤコブ3:9)、子孫に罪を伝え(詩篇51:5)、最終的に人を死に至らせます(ローマ6:23)。

 キリストの救いはこの罪と死の、両方ののろいからの救いです。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)