2021/05/30

2021年5月30日3分メッセージ



 マタイ11章30節をお読みします。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 イエス・キリストはこのように言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11章28節)この言葉は多くの人に愛好されている聖句の一つです。
 冒頭の言葉は、この「重荷を負う者を休ませる」という言葉の後に続くものです。それは、キリストが約束する「魂の休み」(マタイ11章29節)を説明しています。
 キリストは、重荷を負う者の重荷を、代わって負うと言われている訳ではありません。キリストは「わたしのくびきを負う」ようにと言って、私たちに勧めています(マタイ11章29節)。「くびき」とは、家畜の首に負わせる道具です。すなわち、キリストは重荷を負う者と一緒になって重荷を負うと言われているのです。
 私たちの人生には様々な重荷があり、人生に苦労はつきものです。このような人生の重荷を投げ捨てて行くことはできません。しかし、キリストは私たちの人生の苦労を一緒に負ってくださると言われているのです。キリストの力強い助けを得られれば、私たちの人生には安らぎがやってきます。
 キリストは「いつもあなたがたと共にいる」と約束されています(マタイ28章20節)。人生の苦しみを知っておられるキリストに信頼してまいりましょう。
 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは多くの重荷を負っています。今、私たちはキリストの呼びかけに従ってまいります。どうぞ私たちの荷を軽くしてくださり、私たちの魂に安らぎを与えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/05/24

2021年5月30日の聖書日課

(写真:ムベ)

マタイ11:25-30
 11:25 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
 11:26 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。
 11:27 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
 11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
 11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/05/23

2021年5月23日3分メッセージ



 使徒2章1節、2節をお読みします。
五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。

 「五旬節の日」とは聖書の民イスラエル人の祭りの日であり、「ペンテコステ」とも言われます。私たち、志村キリスト教会の所属している「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド」という団体はペンテコステ派の教会であり、ペンテコステは特に重要な祭りの一つです。
 キリストの十字架、復活、昇天の出来事の後、キリストの弟子であるクリスチャンたちは、一つの家に集まってひたすら祈り続けていました(使徒1章14節)。彼らの心には様々な思いがあったと思います。同時に、彼らの心にはキリストとの大切な思い出がありました。彼らのうちにはキリストのこのような言葉が響いていたはずです。「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(使徒1章15節)。
 ペンテコステの日、キリストの弟子たちが体験したことは、まさにキリストが約束していた出来事でした。それは「聖霊のバプテスマ」という体験です。彼らは喜びに満ち溢れました(使徒2章28節)。そして、キリストの約束通りに力を受けて、一つの所に留まり続けるのではなく、外に出て行ってキリストの福音を宣べ伝え始めました(使徒1章8節)。
 そして、約2千年前にエルサレムから始まった福音宣教が今に至り、世界中に教会やクリスチャンが存在するようになりました。今の時代もなお、キリストが約束した力はすべての人のために用意されています。皆様もペンテコステの恵みに与ることができますように、祝福をお祈りいたします。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。キリストは「聖霊のバプテスマを受けることができる」と約束されました。キリストの弟子たちが約束の力に満たされたように、私たちにも聖霊の力を注いでください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/05/17

2021年5月23日の聖書日課

(写真:フジ)

使徒2:1-11
 2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
 2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
 2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
 2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
 2:5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
 2:6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
 2:7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
 2:8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。
 2:9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
 2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
 2:11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/05/16

2021年5月16日3分メッセージ



 エペソ4章1節をお読みします。
さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き…

 キリストの使徒パウロは、エペソの町に住むクリスチャンたちに宛てて手紙を書きました(エペソ1章1節)。その当時、パウロはキリスト教の宣教活動の最中に囚われて、牢獄の中でこの手紙を書きました(エペソ3章1節)。
 パウロは自ら「主イエス・キリストある囚人」と名乗りましたが、その言葉は「クリスチャンはキリストに繋がれた囚人である」ことを意味しています。そして、キリストの囚人としてふさわしい生き方を勧める言葉として、エペソ4章以下の言葉を書き送りました。その内容は、謙虚、柔和、寛容、愛による生き方です(エペソ4章2節)。
 キリストの囚人は、何か法に触れる悪事を行って牢獄に繋がれる者ではありません。むしろ、クリスチャンの生き方にふさわしい「愛」そのものによって囚えられ、愛による生き方しかできなくなってしまった者を意味します。
 しかし、そのような生き方は自然にできるものではありません。それは、キリストご自身によって召し出されて、キリストから賜る平和のきずな、聖霊による一致を受け入れることによって、初めてできる生き方です(エペソ4章3節)。私たちもキリストから望み、信仰、恵みを頂いて、キリストと共に歩んでまいりましょう(エペソ5章2節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。聖書は私たちに愛に生きることを教え、私たちに勧めています。しかし、私たちは愛に生きるために助けを必要としています。どうぞ、イエス・キリストのうちに愛の生き方を学ばせてください。そして、キリストが歩まれたように、私たちも愛のうちに歩むことができますように。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2021/05/10

2021年5月16日の聖書日課

(写真:ハナミズキ)

エペソ4:1-8
 4:1 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、
 4:2 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、
 4:3 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
 4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
 4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
 4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。
 4:7 しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。
 4:8 そこで、こう言われている、
「彼は高いところに上った時、
とりこを捕えて引き行き、
人々に賜物を分け与えた」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
 

2021/05/09

2021年5月9日3分メッセージ



 マタイ6章1節をお読みします。
自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。

 「義」とは、正しい行い、または良い行いのことです。別の聖書の翻訳では、「善行」と言われています。
 ある人は、ほかの人からほめられることを目的として、良い行いを人に見せつけたり、自慢話をしたりします。しかし、不純な動機による良い行いであったとしても、良い行いそのものが無効となる訳ではありません。むしろ聖書は、良い行いは当然に行われるべきものであると教えて、こう語っています。「強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。 」(ローマ15章1節)
 キリストは良い行いについて、人々からほめられること以外の報いがあることを教えています。それは天の父なる神からの報いです。神は人々の目の届かない、隠れたところで悩み苦しむ者を見ておられます。そして、人々の目から隠れた良い行いをする者をも見ておられます(マタイ6章4節)。
 私たちが他人のために良い行いをする時、その人から感謝されなかったり、何か特別な報いを得られない場合があります。しかし、聖書の神はそのことを決して見過ごしにされることはありません。隠れたところで助けてくださる神にならって、私たちも隠れたところで良い行いをする「神の子ども」となりましょう(マタイ5章9節)。

 ご一緒にお祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。神の目には、良いことも悪いこともすべてがお見通しです。しかし私たちは、救いを必要とする者の隠れた祈りに応えられる神を信じます。どうぞ私たちも神の子どもとして、正しい、良い事そのものを実行する者とならせてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)