志村キリスト教会のクリスマス
2025年
12月21日(日)10:30~11:45 クリスマス礼拝
2026年
1月1日(水)10:30~11:45 元旦礼拝
※どなたでもご出席いただけます。ぜひお越しください。
志村キリスト教会のクリスマス
2025年
12月21日(日)10:30~11:45 クリスマス礼拝
2026年
1月1日(水)10:30~11:45 元旦礼拝
※どなたでもご出席いただけます。ぜひお越しください。
創世記15:1-615:1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。15:2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。15:3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。15:4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。15:5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。
アブラムは、後に「多くの国民の父」を意味する名の「アブラハム」に変えられました(創世記17:5)。彼は神の約束を信じて神の召しに従い(ヘブル11:8)、地上の利権に目を留めず神の約束のみを追求しました(創世記14:23)。そのため、新約聖書でも彼は「信仰の父」とみなされています(ガラテヤ3:6-9)。
しかし、アブラムへの約束はなかなか実現しませんでした。彼の思いを見通すように、神は「恐れてはならない」(:1)と語りかけました。その言葉に応じ、アブラムは心の思いを言い表しました(:2-3)。彼の信仰は盲従とは違っていたことがわかります。
その応答に対し、神は言葉とともに幻(映像)を示しました(:5)。言葉では十分に表現できないもの、特に将来について、神は幻やたとえ話のようなイメージを用いて伝えています。
神の約束は言葉で表現しても、その中身は言葉では伝えられません。しかし、アブラムは神の示しをそのまま「信じた」のです。神はそれをよし、「義」と認められました(:6)。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
祈り伝道する教会 牧師 松崎実也
『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい』。
彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。 使徒行伝四章二九~三一節
私どものおかれている時代は、二十世紀の後半、宇宙ロケットのとびかう時代、月旅行も夢ではなくなった時代である。果してこういう時代に、見えざる神を信ずることに意義があるのだろうか。しかり、如何に科学が進歩し、文化生活を営むようになったとはいえ、人の心は昔も今も変らない。罪と不安と絶望の中にある、ただそれを目先の快楽でまぎらわせているにすぎない。
私ども、この時代に生きる教会、キリスト者のなすべきことは何か。それは永遠に変ることのない神の言に信仰をおいて、祈り伝道することである。もし新しいことが起るとすれば、それは、神の言と祈りと信仰とによって、上より、聖霊のみわざとして起るであろう。決して人間の考え出したテクニックや対策からではない。我らは時代にさからって祈り伝道する教会を目ざして進もう。
※教会十年の歩み(1965年6月25日発行)
出エジプト24:5-1124:5 イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。24:6 その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。24:7 そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。24:9 こうしてモーセはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共にのぼって行った。24:10 そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。24:11 神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。
出エジプト記は、神の民イスラエルの誕生を物語ります。彼らには先祖伝来の信仰がありましたが、信仰をどのように守るべきかを教える「宗教」はありませんでした。その宗教を教えるのが「律法」であり、「契約の書」(:7)です。
祭司が定められる前、モーセは若者たちに燔祭等の務めを任せました(:5)。モーセは民に律法順守を誓わせ(:7)、契約の血を注ぎかけました(:8)。その後、七十人の長老たち(:9)とともに神を仰ぎ見(:10)、神の御前で食事をしました(:11)。こうしてイスラエルの民は、律法を授かるにあたり、礼拝方法を実体験によって学びました。
この出来事は、キリストの聖餐式(ルカ22:19-20)のひな形の一つとなりました。律法が神の民に礼拝方法を教えたように、聖餐式はキリストの十字架による贖いのわざを、パンを食べ、ぶどうを飲むことによって体験させます。「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」(コリント第一11:26)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
詩篇19:1-619:1 もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。19:2 この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。19:3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、19:4 その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。19:5 日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。19:6 それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。
「詩篇」はイスラエル人によって歌い継がれてきた賛美歌です。一つの詩篇の中に複数の主題が含まれていますが、全体として共通の主題を歌い上げています。詩篇19篇の主題は啓示(神の示し)です。
神は天により(:1-6)、御言葉により(:7-11)、良心により(:12-14)、人に語りかけています。その中でも、天のもろもろの現象は神の栄光をあらわしています(:1)。その規模は人間の作品に比べたら計り知れず大きく、全世界に及ぶものですが(:4)、そのメッセージは人の言葉によるものではありません(:3)。
人間は注意深く自然界を観察して、それらの現象の意義を理解しつつあります。その多くは、人間の無思慮なふるまいが自然を破壊しつつあることですが、果たしてそれだけでしょうか。
私たちは神の御言葉に、また私たちの良心のつぶやきに耳を傾ける必要があります。その上で、私たちは天の大きなメッセージを聞くことができるようになります。天の大きな賛美に合わせて、「わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように」(:14)と謙虚な告白をしましょう。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
マタイ25:1-1325:1 そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。25:2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。25:3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。25:4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。 25:5花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。25:6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。25:7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。25:8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。25:9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。25:10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。25:11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。25:12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。25:13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
キリストは「世の終り」(マタイ24:3)に関連したたとえ話を語りました。それは当時の結婚式の風習に関する話です。
当時の結婚式では、花婿がその男友達に伴われ、女友達(おとめ)に伴われた花嫁を迎えに行き、盛大な披露宴が開かれます。花婿たちは各所にあいさつ回りをしながらゆっくりと迎えに行くため、披露宴は大変遅くに始まることが見込まれました。花嫁の友達は日中であろうと夜中であろうと、披露宴に花とあかりをもたらす役目があります。そのため彼女たちにはあかりを絶やさないための油の用意が必須だったのです。思慮深さは、必須の油を用意しているか、いないかにかかっていました(:3)。
この天国のたとえ話は、「人の子」であるキリストが世の終りに再び来られることを示しています(マタイ24:33)。私たちにはキリストを出迎える用意が求められています。花婿であるキリストも言われます。「行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:3)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
エペソ5:1-55:1 こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。5:2 また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。5:3 また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。5:4 また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
私たちの世界の親子関係は千差万別で、非常に親しい親子も、そうでない場合もあります。親から虐待を受け続けた結果、自らも子を虐待するような負の連鎖もあります。しかし、「愛」というものは、本当の意味で親しい人間関係がなければ伝わりません。
自らが人を愛する「愛の人」となるためには、自ら愛を十分に受け入れなければなりません。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ3:19)
神の愛を受け入れ、神にならう者になってこそ、初めて愛の人と言えます(:1)。愛の人は「愛のうちを歩く」、すなわち愛することを実行する人です(:2)。「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」(ヨハネ第一3:18)
愛の人であるなら、愛にふさわしくないことを避けなければなりません。それは、汚れた行いと言葉です(:3)。これらの事柄と正反対なのが「感謝」です。感謝は汚れた心を清めます。「すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ第一5:18)
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)