2025/08/17

2025年8月17日「預言者ヨナのしるし」

ヨナ3:1-5
 3:1 時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、
 3:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。
 3:3 そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。
 3:4 ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。
 3:5 そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。

 ヨナは、イスラエル王国の北方で活動した預言者です(列王紀下14:25)。ヨナ書は、神からの預言の言葉よりも、預言者ヨナの活動内容を中心に記しています。当初、ヨナは神の命令に従いませんでした(ヨナ1章)。その結果、ヨナは船上で暴風にあい海に投げ入れられて、三日三夜大魚の腹の中で不従順を悔い改めます(ヨナ2章)。

 ヨナ3章の「主の言葉」(:1)は悔い改めたヨナに対する再度の神の命令です。この度はヨナは主の言葉に従い、ニネベの町に行き神の言葉を伝えました。「ニネベは滅びる」(:4)という神からの預言に対し、ニネベの人々は神を信じ、悔い改め始めました(:5)。ヨナは大魚の腹の中に閉じ込められ、ニネベの人々は神の言葉を聞いて悔い改めたのでした。

 これがキリストにより「預言者ヨナのしるし」(マタイ12:39)と言われた出来事です。聖書の神は今も変わらず私たちに語りかけています。小さな出来事を見逃さず、また聖書によりはっきりと示されている神の言葉を心に留める者でありましょう。「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ4:17)。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/10

2025年8月10日「招くのではなく、招かれる」

マタイ9:9-13
 9:9 さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
 9:10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
 9:11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
 9:12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
 9:13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 マタイはキリストの十二使徒の一人で、元はローマ帝国の税金を徴収する取税人でした(マタイ10:2)。取税人はユダヤ人からは嫌われていて、罪人と同じように思われていました(:11)。

 マタイはキリストから弟子となる招きに応じた後(:9)、彼を食事に招きました(:10)。食事の席にはマタイに親しい人々も集まって来て、キリストは「多くの取税人や罪人たち」と共に食事することになりました。それをパリサイ人たちが非難したのです(:11)。

 キリストはこう反論しました。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(:13)。こう言って、多くの取税人や罪人たちと共に食事をすることを肯定したのでした。キリストはマタイと共に、多くの罪に苦しむ人々を招いて解放するために、マタイの食事の招きに応じたのです。キリストを信じ受け入れる者は、実はキリストから罪の赦しに招かれているのです。

 「熱心になって悔い改めなさい。見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。」(黙示録3:19-20)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/08/03

2025年8月3日「永久の約束と定め」

出エジプト12:20-27
 12:20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。
 12:21 そこでモーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。
 12:22 また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。
 12:23 主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。
 12:24 あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。
 12:25 あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。
 12:26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、
 12:27 あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。

 現代の教会で行われている聖餐式は、キリストによる最後の晩餐が起源です。最後の晩餐はイスラエルの過越の祭りの食事での出来事でした。聖餐式の起源は過越祭まで遡ることができます。

 聖餐式のパンは過越祭の「種入れぬパン」まで遡ります。古代のパンは膨らませるために古いパンを「パン種」として用いました。悪いパン種は食中毒の原因となります。過越祭では素早く、パン種を用いずにパンを焼きます(:20)。

 聖餐式のぶどう酒はキリストの血を意味します。過越祭では小羊をほふり、その血を家の入口につけました(:21)。血のつけられた家は、滅ぼす者が過ぎ越して守られました(:23)。

 聖餐式のパンもぶどう酒も、キリストの命を示しています。時代が変わっても、変わらない神の守りを過越祭、聖餐式は教えています。キリストは今日も教会に集う者たちに語りかけています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。」(ヨハネ6:54)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/27

2025年7月27日「主イエス・キリストの名」

使徒19:11-20
 19:11 神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。
 19:12 たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。
 19:13 そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。
 19:14 ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。
 19:15 すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。
 19:16 そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。
 19:17 このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシヤ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。
 19:18 また信者になった者が大ぜいきて、自分の行為を打ちあけて告白した。
 19:19 それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。その値段を総計したところ、銀五万にも上ることがわかった。
 19:20 このようにして、主の言はますます盛んにひろまり、また力を増し加えていった。

 キリストの使徒パウロは二年間にわたりエペソで主イエス・キリストの福音を語り続けました(使徒19:1-10)。またパウロはキリストの福音に伴う「力あるわざ」として病のいやしの奇跡も行いました(:11-12)。その「力あるわざ」は、イエスがキリストであることを証明するために行われました(使徒2:22)。

 しかし、ある者は「力あるわざ」だけに注目しました。とあるまじない師は呪文のごとく「イエスの名」を唱えましたが、失敗しました(:13-16)。他の魔術師は「力あるわざ」を行う力を金で買おうとして戒められました(使徒8:18-24)。

 主イエス・キリストの名は呪文でも道具でもありません。「主イエスの名があがめられ」(:17)るべきであり、決して金銀に換算される資産ではありません(:19)。主イエスの名はすがる人を救う尊い神の力です。「わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」(使徒4:12)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/07/20

2025年7月20日「自分の目にある梁」

マタイ7:1-8
 7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
 7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
 7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
 7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
 7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
 7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
 7:8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

 マタイ5~7章の「山上の説教」は、折に触れて語られたキリストの多くの説教をまとめたものです。それぞれの話に厳密な文脈があるわけではありませんが、キリストの一貫した教えとしてそれぞれの話を比較することで新しい学びを得ることができます。

 人をさばくことの問題点が二つ挙げられています。他人の欠点をさばくなら、そのさばきが自らの欠点をさばくことになるのが一つです(:2)。「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26:52)もう一つは、「自分の目にある梁」(:3)です。建物の梁をかんなで仕上げると木の「ちり」が出ます。目を傷つけるちり以上の、梁のような大きな障害が自分にあることを、さばく人はしばしば認めないものです。

 人をさばくには善悪を見分ける確かな目が必要です。真珠を見分けられない豚(:6)のような目では、正しいさばきなど望むことはできません。それこそ私たちが真に求めるべきものです(:7)。「日夜叫び求める選民のために、正しいさばきを…神はすみやかにさばいてくださるであろう。」(ルカ18:7-8)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/13

2025年7月13日「神の手の内にある者」

イザヤ49:14-19
 49:14 しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
 49:15 「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。
 49:16 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
 49:17 あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒した者は、あなたから出て行く。
 49:18 あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
 49:19 あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。

 イザヤ書は、神の都エルサレム、またの名をシオンに「よきおとずれ」(福音、イザヤ40:9)を語りかけます。しかし、神の民イスラエルは「主はわたしを忘れられた」(:14)と言い、苦難を忘れられず、失意に沈んでいます。

 福音を語りかける神は、父母の愛(:15)のように変わらぬ思いを神の民に抱き続けていると言います。神の目には、神の民は手の外側でなく内側(たなごころ)に刻まれており(:16)、他人に見せる飾りではなく、神ご自身がずっと見続けて忘れないことを告げています。

 神の民の目には現実の苦難しか見えていません。しかし、神の目には民を守る石がきが、荒廃ではなく発展が(:17)、多くの集められた人々が(:18)見えています。福音が告げる「神の救」(イザヤ49:8)は、人が想像することを超えています。「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/06

2025年7月6日「キリストにつけられた者」

ローマ6:4-11
 6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
 6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
 6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
 6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
 6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
 6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

 教会では様々な活動が行われており、礼拝の方法も教会により様々な形がありますが、その本質は一つです。

 その中でも、教会ではキリスト教式の葬儀が行われます。そして、キリスト教の葬儀は他の宗教とは決定的に異なる点があります。それは、葬儀を含むキリスト教の諸活動は、すべて神への礼拝として行われるということです。葬儀の中でも神への賛美が歌われ、祈りがささげられます。クリスチャンとなる第一歩である洗礼式(バプテスマ)も神への礼拝であり、キリストに自らの身をゆだねる儀式です。また洗礼式はキリストと共に葬られる(:4)、葬儀でもあります。

 キリストと共に葬られた者は、キリストと共に死人の中からよみがえります。クリスチャンは心に、キリストの死と復活が、分かれることなく一つとなって刻まれています。「私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる」(:5)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)