2020/06/10

2020年6月10日(水) 志村キリスト教会の現況

都内では東京アラートが発動中ですが、
教会は元より休業要請の対象となっていません。
※参考:施設別休止要請の緩和ステップ(東京都防災ホームページ)
ですが、教会活動が「3密」とならないために、
現在は以下の感染症対策を講じて集会を行っています。

1.集会時間を1時間に短縮する
2.座席等のソーシャルディスタンスを確保する
3.礼拝堂の換気を徹底して実施する
4.食事会等の感染リスクの高い行事を中止する
5.集会出席者に手洗い、マスク等を要請する

志村キリスト教会にお越しの際には、
上記の感染症対策へのご協力をお願いいたします。

皆様のご健康の守りのため、感染症問題の一日も早い終息のためお祈りいたします。

2020/06/08

2020年6月14日の聖書日課


(写真:シロタエギク)

申命記6:17-25
 6:17 あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、あかしと、定めとを、努めて守らなければならない。
 6:18 あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。そうすれば、あなたはさいわいを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう。
 6:19 また主が仰せられたように、あなたの敵を皆あなたの前から追い払われるであろう。
 6:20 後の日となって、あなたの子があなたに問うて言うであろう、『われわれの神、主があなたがたに命じられたこのあかしと、定めと、おきてとは、なんのためですか』。
 6:21 その時あなたはその子に言わなければならない。『われわれはエジプトでパロの奴隷であったが、主は強い手をもって、われわれをエジプトから導き出された。
 6:22 主はわれわれの目の前で、大きな恐ろしいしるしと不思議とをエジプトと、パロとその全家とに示され、
 6:23 われわれをそこから導き出し、かつてわれわれの先祖に誓われた地にはいらせ、それをわれわれに賜わった。
 6:24 そして主はこのすべての定めを行えと、われわれに命じられた。これはわれわれの神、主を恐れて、われわれが、つねにさいわいであり、また今日のように、主がわれわれを守って命を保たせるためである。
 6:25 もしわれわれが、命じられたとおりに、このすべての命令をわれわれの神、主の前に守って行うならば、それはわれわれの義となるであろう』。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/06/07

2020年6月7日3分メッセージ



 第一テモテ6章12節をお読みします。
信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。

 今回お読みした「テモテヘの第一の手紙」は、イエス・キリストの使徒パウロからテモテに宛てた手紙です。
 パウロが書いた手紙は新約聖書に数多く収められています。パウロの手紙を読んでわかるのは、彼はスポーツが好きで、手紙の中にスポーツの言葉が多く出てくることです。例えば、このような言葉があります。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。」(第二テモテ4章7節)
 最初にお読みした「信仰の戦い」とは、スポーツの試合のことを思い描いています。パウロは、試合に勝って賞を得られるよう頑張りなさい、と語っているわけです。そして、その賞品として得られるのが「永遠のいのち」です。
 現実のスポーツの世界には様々な駆け引きがあるかもしれません。しかし、公正な競技であるためには、定められたルールに従わなければなりません。また、勝ち負けを決することで人間関係が壊れてしまうべきではなく、お互いに優れている点を認め合うべきです。
 信仰の世界でも、得意不得意が表れることがあるでしょう。しかし、一人びとりが神から与えられたタレント(タラント、マタイ25章14~32節)を生かして生涯を全うするとき、人ではなく神がその人を正しく評価してくれます。聖書の神は賞品を、神を信じ従う者に「だれにでも授けてくださるのです。」(第二テモテ4章8節)
 神はすべての人にかけがえのない人生を与えられ、励ましのエールを送っておられます。私たちは、「わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうでは」ありませんか(ヘブル12章1節)。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。私たちは人生を歩む中で、時に息切れを起こして立ち止まってしまうこともあります。その時、私たちを励ましてくださる神の御言葉を心に聞くことができますように。たどり着くべきゴールに至るまで、私たちを支えてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/06/01

2020年6月7日の聖書日課

(写真:ユキノシタ)

第一テモテ6:11-16
 6:11 しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。
 6:12 信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。
 6:13 わたしはすべてのものを生かして下さる神のみまえと、またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをなさったキリスト・イエスのみまえで、あなたに命じる。
 6:14 わたしたちの主イエス・キリストの出現まで、その戒めを汚すことがなく、また、それを非難のないように守りなさい。
 6:15 時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、キリストを出現させて下さるであろう。
 6:16 神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/31

2020年5月31日3分メッセージ



 エゼキエル37章3節をお読みします。
彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。

 神のメッセンジャー(預言者)であるエゼキエルは、キリストの弟子ヨハネと同じように、神のメッセージを不思議な光景を見ることによって受け取りました。
 その光景は異様なものでした。エゼキエルは見渡す限りの人の骨を見たのです(エゼキエル37章1節)。その後、神はエゼキエルにこう問いかけました。「これらの骨は、生き返ることができるのか」。
 皆さんなら、この問いかけに何を思い、何と答えられるでしょうか。ある方は「人の骨が生き返るなんて起こりっこない」と答えられるかもしれません。
 エゼキエルは「はい」とも「いいえ」とも言いませんでした。恐らく、複雑な思いを抱きながら、「神のみぞ知る」というような答えをしたのだと思います。
 その後、エゼキエルはまたも不思議な光景を見ました。バラバラに散らばっていた無数の骨が組み合わさり、肉体が生じ、息を吹き返した人々が大群衆となって立ち上がったのです。神はこの光景の意味するところを教えました。無数の骨は、生きる希望を失い、心がバラバラになった人々の姿である、と言うのです(エゼキエル37章7~11節)。
 人はたとえ何不自由ない生活をすることができたとしても、心に生きる希望がなければ人として生きていくことができません。聖書の神は、人に日々の糧を与えるだけではなく、人間らしく生きていくために必要なものを与えて、心を生かしてくださいます。私たちも心に「神の国」を持つ者となりたいと思います(マタイ6章33節)。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。近ごろの私たちは思いがけない出来事を経験して、人として生きていくために必要なものは何であるかを考えさせられています。あなたは私たち人間が健やかに生きていくために必要なものすべてをご存じです。私たちが神の守りを得て、明日に希望を見いだして生きることができるようにしてください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/25

2020年5月31日の聖書日課

(写真:サツキ)

エゼキエル37:1-14
 37:1 主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。
 37:2 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
 37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。
 37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。
 37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
 37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
 37:7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
 37:8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。
 37:9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
 37:10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。
 37:11 そこで彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と。
 37:12 それゆえ彼らに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。
 37:13 わが民よ、わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓からとりあげる時、あなたがたは、わたしが主であることを悟る。
 37:14 わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2020/05/24

2020年5月24日3分メッセージ



 黙示録5章12節をお読みします。
「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。

 黙示録は、イエス・キリストの弟子ヨハネがキリストから授かったメッセージを記録したものです(黙示録1章1節)。
 ヨハネは不思議な光景を目の当たりにしましたが、そのうちの幾つかの物は聖書の民であるイスラエル人のヨハネにもはっきり理解できました。そのように、黙示録は他の聖書の知識を活用することで本来の意味を知ることができます。
 ヨハネが見たのは「ほふられた小羊」でした。羊はイスラエル人の代表的な家畜であり、神への礼拝の際にほふって殺され、生贄として捧げられました。しかし、ヨハネが見た小羊はほふられたにも関わらず、生きていて目の前に立っているのでした。
 イスラエル人でありキリストの弟子であるヨハネは、「ほふられた小羊」が取りも直さずイエス・キリストを示すことがわかりました(ヨハネ1章29節)。キリストは十字架で血を流されましたが、その血は全人類を救うための生贄となりました。また、十字架の死から三日目の復活は、私たちを救って命を与えるためのものでした(黙示録5章9、10節)。
 キリストの救いの業は、小羊のように犠牲になることによって実現されたものです。キリストの救いに与るために、私たちは力や富を蓄える必要はありません。必要なのはキリストを信じることだけです。信じる者に、キリストはあらゆる力や富に勝る天からの祝福を注いでくださいます。

 お祈りいたしましょう。
 天の父なる神様。ヨハネは迫害に苦しむ者のために黙示録を残しました。今日も私たちは、この聖書の中に救いの希望を見いだすことができます。ほふられた小羊であるイエス・キリストが、私たちの苦しみを取り除き、希望をもって日々を生きることができますようにお導きください。
 イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)