(写真:チャノキ)
ローマ7:7-13
7:7 それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
7:8 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。
7:9 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、
7:10 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。
7:11 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。
7:12 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
7:13
では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。
(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)
2019/11/01
2019/10/27
2019年10月27日3分メッセージ
創世記1章1節から5節までをお読みします。
初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
聖書の最初、創世記の冒頭に世界の始まりが語られます。
世界がどのように始まり、人類が存在するようになったのか。私たち人類は遥か昔から今に至るまで、世界の始まりの謎を解明しようと様々な努力をしてきました。その結論として語られている様々な説明に、私たちは満足できているでしょうか。
聖書が語る世界の始まりの物語は、科学者が求めるような客観的資料をほとんど提供していません。代わりに、人間を中心とする見方からは見えてこない見方、すなわち世界の創造者からの見方で世界の始まりを語っています。
神は言葉によって世界を創造し、名づけることによって世界が存在する「意味」を与えました。創造の終わりに、神は自らが創造したものを「良い」ものであると認めました。
聖書は、神とはどんな御方なのか、また神が語られ、行われたことを多く語っています。私たちが聖書を読む時、神を知ることを通して自らの起源を知り、自らの存在する意味を知り、自らの価値を知ることができます。聖書の神はこのように語っています。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ43章4節)
お祈りいたしましょう。
天の父なる神さま。私たちは世の中の様々な情報に振り回され、自らの価値を見失ってしまうことがあります。私たちが聖書を読む時、世界の創造者である神が「良し」とされた、私たち自身の尊い価値を知ることができますように。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 (C)1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
2019/10/20
2019年10月20日3分メッセージ
ルカ19章26節をお読みします。
あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。
イエス・キリストは次のようなたとえ話をしました。
『ある貴族が遠い国に旅に出ました。その目的は皇帝に謁見して、自分の地方の支配権を認めてもらうためでした。
旅に出る前に、貴族は十人のしもべに資本金を預け、主人の留守中に商売をして金を儲けることを命じました。
あるしもべは商売をして資本金を十倍に、別のしもべは五倍に増やしました。しかし、ある別のしもべは商売をせず、預かった金を風呂敷に包んでしまっておきました。彼の目には、預かった金は無いに等しく、主人はきびしい人だと映っていたからです。
彼らの主人は王となって帰ってきました。主人はしもべたちに預けた金を精算し、それぞれの功績に応じてしもべたちを町の代官に任命しました。しかし、主人の命令に従わなかったしもべは叱られ、預けた金は取り上げられて最も功績のあったしもべに与えられました。』
このたとえ話は、人間には等しく人生を生きる機会が与えられていることを示しています。ある人は自分に与えられたものを不満に思い、折角の機会を生かすことができないのかもしれません。聖書は「すべての事について、感謝しなさい」(第一テサロニケ5章18節)と教えています。充実した人生を生きる秘訣を聖書に学びたいと思います。
お祈りいたしましょう。
天の父なる神さま。私たち一人びとりに与えられたものを感謝しつつ、それを見定めて生かしていく目を私たちに与えてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
2019/10/13
2019年10月13日(日) 聖餐式
志村キリスト教会では毎月第二日曜日に、礼拝の中で聖餐式を行っています。聖餐式とは洗礼を受けたクリスチャンが与るキリスト教の儀式です。クリスチャンではない方も見学することができますので、第二日曜日も気兼ねなくお越しください。
2019年10月13日3分メッセージ
ヤコブ2章1節をお読みします。
私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。
キリスト教会という社会集団は、ほかの社会集団、例えば会社などとは違う特徴があります。
第一に、教会はイエス・キリストが中心である団体です。キリストによる救いを語る聖書を行動規範として、教会は運営されており、教会員すなわちクリスチャンは日々生活することを志しています。
第二に、教会は社会のあらゆる差別を受け入れず、キリストを信じる信仰のもとに平等を守る団体です。家族関係をはじめとする社会の様々な身分の違いについて、教会は無視している訳ではありません。しかし、それらの身分の違いによって教会内の立場の優劣を決めることはありません。また、クリスチャンでない方が信仰について知ることを願われるなら、礼拝などの教会の活動に参加されることを歓迎します。
教会のクリスチャンはイエス・キリストの言葉と生き方に学ぶ者であり、他人より優れた熟練者であると考えないでください。聖書はキリストの教えと相いれない、人を差別するような「えこひいき」を戒めています。キリストが身をもって教えられた「愛」に、私たちは謙虚に学びたいと思います。
お祈りいたしましょう。
天の父なる神さま。私たちのうちから人を差別する「えこひいき」を取り除いてください。代わりに、イエス・キリストによって示された「愛」を実践する者として私たちを教え導いてください。
イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
(聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会)
登録:
投稿 (Atom)