2025/12/14

2025年12月14日「主の道を備えよ」

マルコ1:1-8
 1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
 1:2 預言者イザヤの書に、
「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、
あなたの道を整えさせるであろう。
 1:3 荒野で呼ばわる者の声がする、
『主の道を備えよ、
その道筋をまっすぐにせよ』」
と書いてあるように、
 1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。
 1:5 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
 1:6 このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
 1:7 彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。
 1:8 わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。

 イエス・キリストがこの世に来られるまでには、いくつかの準備段階がありました。

 はるか昔にはイザヤ等の預言者による予告がありました(イザヤ40:3)。その予告の言葉は、キリストが来られる道を整えよと命じています(マラキ3:1)。そのために多くの人々がキリストの先駆者として用いられ、預言者たちが予告をし、最後にバプテスマのヨハネが悔改めを宣べ伝えました(:4)。彼ら預言者は、自らはキリストではなく「荒野で呼ばわる者の声」(:3)に過ぎないと言いました。ヨハネのバプテスマ(洗礼)も、あとに来る本体であるキリストによる「聖霊によるバプテスマ」(:8)の予告に過ぎないものでした。

 キリストご自身もクリスマスに生まれて、30年ほど経った後に宣教の働きを始めました(ルカ3:23)。このように、私たちの待ち望む神の救いの時は、神が定めています。「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ…おつかわしになった。」(ガラテヤ4:4)今年も主の到来(アドベント)を期待してまいりましょう。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/12/07

「鷲志 第6号」(1968年)より

証詞・信仰体験記 荒井康泰

 私は教会へ行ったのは小学校五年の時が初めてであった。兄が救われ、姉が救われ、二人の生れ変っている生活を見て、自分も教会へ行ってみたいと思ったのである。歌のすきであった私は教会の賛美歌も魅力であった。しかし、勇気のない自分には教会へ入ることが出来なかった。姉につれられて行ったのが教会の初めての集会であった。それから中学三年までかよい続けたが、キリストの救いをもっていなかった。その後、教会から離れるようになり、人生についても考えるようになり、何のために生きているのか?何が人生の目的であり、何をたよりに生きているのか?ということが問題になり、悩みながら四年すぎていくある日、友人と共に教会に再び出席した。説教の中でただ一つの御言が私の心にひびいた。それは「私は道であり、真理であり、生命である」という御言で、特にキリストこそ道であり、これが人生の目的であり、生きがいであるのだということを知らされ、熱心に、神を求め続けた。一年間の週三回の集会も休まないで出席したことを記憶している。

 ある伝道会に、救われたいという飢え渇きをもって熱心に悔改めたとき、私の心の中に、今までにない光と喜びが湧きあがり、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(第二コリント五・一七)というこの聖書の御言が私の心にひらめき、私は救われ新しくされ、清められたと実感し、確信した。

 さらに素晴らしいことは、聖霊のバプテスマを受け、聖霊に満たされ、一時間位満たされつづけ、それからというものは、キリストに対する伝道と奉仕の意欲がわいてきたのです。

 現在の私の心の中には、キリストによる救いの喜びが満ちあふれ、六年間たった今なお祈るとき、同じこのすばらしい恵みを与えられていることをおぼえて、苦しい中にも毎日感謝して生活している。

※鷲志第6号(1968年5月12日発行)

2025年12月7日「心にしるされた契約」

エレミヤ31:31-34
 31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
 31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
 31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
 31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

 契約は有効期限等の条件が変われば、多くの場合は以前の契約内容を引き継いで更新されます。預言者エレミヤの時代、二つのイスラエルの国家のうち、「イスラエルの家」(:31)は滅亡していました。しかし、神はイスラエルの全家と結んだ契約を更新しようと臨まれます。

 モーセを通して結ばれた契約は、人の一方的な落ち度により破棄されました(:32)。神はモーセに契約をしるした石の板を授けましたが(出エジプト31:18)、民の偶像礼拝を見たモーセは怒って板を砕いてしまいました(出エジプト32:19)。神が落ち度なく用意した契約を、人は簡単に破ってしまったのでした。

 神が新しく用意した契約は、人の手で壊されることのないよう、人の心にしるすと言われました(:33)。私たちの心は、神の新しい契約を保てるでしょうか。そのためには、私たちの心は新しくされる必要があります。「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け…わがおきてを守ってこれを行わせる。」(エゼキエル36:26-27)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)