2024/06/06

聖書の教理~(9)悪魔

 悪魔について、聖書は明確に示している個所もありますが、悪魔を示唆していると思われるような個所もあります。しかし、不明確な聖書の言葉については慎重に取り扱うべきです。例えば、「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。」(イザヤ14:12)という言葉は、悪魔を示しているとは断言できません。

 悪魔についても、聖書は様々な呼び名によってその性質を示しています。例)サタン(敵対者、ヨブ1~2章)、アバドン、アポルオン(破壊者、黙示録9:11)、試みる者(マタイ4:1-11)、この世の神(コリント第二4:4)。

 悪魔はその呼び名、その活動に示されている通り、神と神に従う者たちに反抗することが本分です(テサロニケ第一2:18)。神への反抗のためなら、正義に擬装することも行います(コリント第二11:13-15)。しかし、悪魔の最後は滅亡であることが定められています(黙示録20章)。

 悪魔は決して恐れるに足りません。なぜなら、神がわたしたちの味方となってくださるからです(ローマ8:31)。キリストはこのように宣言しています。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/06/02

2024年6月2日の聖書日課

(タチアオイ)

ヨハネ3:1-8
 3:1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
 3:2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
 3:3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
 3:4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
 3:5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
 3:6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
 3:7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
 3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/05/30

聖書の教理~(8)天使

 聖書は、神や人とは異なる存在として天使に言及しています。天使について詳しく説明している聖書の言葉は多くありません。天使を神格化して礼拝することは禁じられています(コロサイ2:18)。「わたしは彼(天使)の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、『そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。…」(黙示録19:10)

 聖書に示されている天使の性質は、明らかに人間と異なり、人間よりはるかに優れています(ルカ20:36)。しかし、キリストに従う存在であることは、この世のクリスチャンと共通しています(ペテロ第一3:22)。神のしもべとして、天使は従順であり(詩篇103:20)、敬虔であり(ネヘミヤ9:6)、賢明であり(サムエル下14:17)、聖なる存在です(黙示録14:10)。

 天使はクリスチャンに仕えるために、神の命で天よりつかわされました(ヘブル1:14)。私たちは天使の奉仕への姿勢から学べることがあるはずです。「感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。」(ヘブル12:28)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)

2024/05/26

2024年5月26日の聖書日課

(カラタチ)

ローマ8:31-39
 8:31 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
 8:32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
 8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
 8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
 8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
 8:36 「わたしたちはあなたのために終日、
死に定められており、
ほふられる羊のように見られている」
と書いてあるとおりである。
 8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
 8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
 8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/05/23

聖書の教理~(7)三位一体

 聖書の神の「三位一体」とは、聖書において直接的に説明されている言葉・概念ではありません。しかし、聖書を読んで神を知るにつれて、聖書の神の最も妥当な説明を与えるものです。一例として「アタナシオ信経」では次の通り三位一体を説明しています。「父は一つの位格、子も他の位格、聖霊も他の位格である…。しかし、父、子、聖霊の神性はまったく一つであり、栄光は等しく、尊厳は共に永遠である。」

 聖書では三位一体の教理のそれぞれの一面を垣間見ることができます。「父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。」(ヨハネ5:19)「父がわたし(子)の名によってつかわされる聖霊」(ヨハネ14:26)三位一体とは、聖書の神が永遠の交わりを持たれる方であることを示します。

 聖書は神が唯一であり(申命記6:4)、その神が神の働きにおいて様々な現れを伴うことを示しています(創世記1:1-2)。イエス・キリストの地上の生涯においても三位一体の神の現われが伴っていました(マタイ3:16)。教会は三位一体の神への信仰に立ち、このように言って祝福の祈りをささげます。「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」(コリント第二13:13)

参考資料:
日本聖書協会「聖書 口語訳」1955年版
マイヤー・パールマン「聖書の教理(上)」福音出版社(1981年)
『アタナシオ信経』(日本聖公会「祈祷書」(2004年)より)

2024/05/19

2024年5月19日の聖書日課

(アマドコロ)

ローマ8:22-27
 8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
 8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
 8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
 8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。
 8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
 8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)