2026/02/01

「献堂40周年記念文集」(1994年)より

わが国籍は天にあり 沢田なみえ

 私は一八九九年(明治三二)一月茨城県下のある門徒宗の寺に生れて本年九五歳になりました。少女時代鐘の音を聞きつつ仏のためにと朝夕拝み、経典を読まさせられたりの毎日を過して参りました。年頃となり結婚しましたが、酒ぐせの悪い夫とは知らず、そのため苦悩の多い日々を経験しました。三人の子供をかかえ、それは大変でした。自分の運命を呪ったこともありました。悔やまれる人生だと日夜悩み、心配の余り倒れることも度々ありました。寺に生れ、仏典を手にしたこともあるのに私の心には何らの救いもありませんでした。

 「そうだ自殺する気なら何でもできる、どこか働く所を探そう」と思っている矢先に、北区の洋品問屋の者だがといって、年の頃六〇歳位の方が来訪され、衣料品を売りさばいてほしいとの、話が思いがけなくも飛び込んで参りました。突然の事でしたが今思えばこれが、主なる神様の助けだったのです。とにかく大喜びと感謝の気持ちで、自分に持てるだけの荷物を背負ってあちこちの家々に、行商で売り歩きました。不思議に順調に衣料品は売れ、会社でも喜ばれました。もちろん辛い時もありましたが、持ち前の積極さでぐんぐん売り上げも伸びてゆきました。

 そうこうしている時に、現在の志村教会のあることを知ったのです。当時の牧師先生は山脇久治先生でした。先生から、この世の罪人たるこの「沢田」を救うために、天の御父上は愛する独子イエス・キリストを賜ったこと、そして十字架上で身代わりとなって死んで下さったこと。それ故に、全ての罪は赦され、神の子と造り変えられ、新生し、かつ永遠の命まで頂いて、この世の旅路を終えたのち、イエス様のおいでになる天国でずーっと、栄光の身体をもって生きてゆくことができるなど、色々と教えていただき本当に感謝いたしました。

 ふり返れば長い人生様々ありましたが、大正十二年九月一日の関東大震災、二十四歳でもう三人の子供がありましたが、突然の事とて大あわて。浅草区は火の海となったので、上野の山に命からがら一端逃げだし、さらに茨城の実家に家族一同ようやくの事でたどりついた事。また戦時中は小石川区に住んでいましたがこれまた東京大空襲で家は丸焼け。けれども私の生命だけは助かりましたが、戦地の二人の息子は戦死する有様でした。昭和二〇年敗戦後、板橋区大和町に家を設けそこで生活するようになって、家庭集会や子供会も開き、近所の子供達にも聖書の話を語って聞かせ、大変喜ばれたこともありました。しかし、長男は終戦と共に外地から帰国しましたが、栄養失調で入院、肺結核を併発、病死してしまいました。そんな悲しみをも味わいましたが、その後主人はキリスト様を受け入れ、クリスチャンとなって天に召されていきました。

 現在の都立老人ホームに入所してもう二〇年以上になりますが、私にとってここが神様から与えられた最後の伝道の場となりました。あの方この方に「日曜日は志村教会に一緒にゆきましょう。そこに真実なる神様が待っておられます。主イエス・キリスト様はあなたを愛しておられます」と声をかけ、お誘いしてもう何人の方々が洗礼の恵みにあずかられたことでしょうか。かれこれ三〇名になります。もちろんこのことは私一人の力ではなく、牧師先生を始め、志村教会諸兄姉たちの厚きお祈りとご協力によるものであります。(中略)

 ハレルヤ!「わが国籍は天にあり」(ピリピ三章二〇節)ですから、もういつ神様からのお召しがあっても悔いる所はありません。

※献堂40周年記念文集(1994年7月10日発行)

2026/01/04

「鷲志 松崎師記念号」(1973年)より

あかし 清水裕子

 私が初めて志村教会へ来たのは昭和三十六年七月でした。たずねて、たずねて、やっと捜しあてた頃には、帰り道が案じられるほどに遠く、家から二時間位離れていました。もっと近い教会があったのに志村教会へ来たのは――私はそれより二ヶ月前の全国聖会で救われたのですが、会場で松崎先生から名刺をいただきました――この日ふとたずねてみようと思いついたのです。神様の摂理でしょうか、私は先生の名刺によって志村教会へ導かれました。

 しかし、最初から熱心に集会へ出席したわけではありません。聖会で著しい御霊の取扱いを受けながらも、教会生活の重要性を認識していませんでした。私に教会行きを促したのは先生からの定期郵便でした。義理を感じ感謝もあって又行きたいという思いにかられ、再び教会へ来ました。

 その後、献身を決意し教会へ住み込みましたが、ある特別集会の翌日に高熱を出して倒れてしまいました。激しい痛みに身動きもできなかった数日間、道子先生に一方ならぬお世話になりました。忙しい夕方に小さかった福子ちゃんの泣声がひとしきり止まない時など私は心も痛みました。入院という最悪の事態がおとずれましたが、先生はじめ教会あげての祈りに支えられ、今は御国に在る老姉の枕辺で続けられた祈りもあって、召命感は守られました。

 退院後、見ゆるところは望みの無い状態でしたが、外の声に沈黙し、ひたすら内に御旨をたしかめつつ、待望の日を過していました。その様なある日、先生に再び献身の問題をたずねられ、この道一筋に生きる意志を表明したのです。先生の御言葉の中に召しに従った者の心意気をうかがい、私の心は定まりました。

 ギルガルからベテルへ、ベテルからエリコ、さらにヨルダンへ――救い、献身、戦いと、エリシャの如く師に次いで献身者の道程を進んで行きたく願っています。

※鷲志・松崎師記念号(1973年3月18日発行)