2025/07/27

2025年7月27日「主イエス・キリストの名」

使徒19:11-20
 19:11 神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。
 19:12 たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。
 19:13 そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。
 19:14 ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。
 19:15 すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。
 19:16 そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。
 19:17 このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシヤ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。
 19:18 また信者になった者が大ぜいきて、自分の行為を打ちあけて告白した。
 19:19 それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。その値段を総計したところ、銀五万にも上ることがわかった。
 19:20 このようにして、主の言はますます盛んにひろまり、また力を増し加えていった。

 キリストの使徒パウロは二年間にわたりエペソで主イエス・キリストの福音を語り続けました(使徒19:1-10)。またパウロはキリストの福音に伴う「力あるわざ」として病のいやしの奇跡も行いました(:11-12)。その「力あるわざ」は、イエスがキリストであることを証明するために行われました(使徒2:22)。

 しかし、ある者は「力あるわざ」だけに注目しました。とあるまじない師は呪文のごとく「イエスの名」を唱えましたが、失敗しました(:13-16)。他の魔術師は「力あるわざ」を行う力を金で買おうとして戒められました(使徒8:18-24)。

 主イエス・キリストの名は呪文でも道具でもありません。「主イエスの名があがめられ」(:17)るべきであり、決して金銀に換算される資産ではありません(:19)。主イエスの名はすがる人を救う尊い神の力です。「わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」(使徒4:12)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2025/07/20

2025年7月20日「自分の目にある梁」

マタイ7:1-8
 7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
 7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
 7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
 7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
 7:6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
 7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
 7:8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

 マタイ5~7章の「山上の説教」は、折に触れて語られたキリストの多くの説教をまとめたものです。それぞれの話に厳密な文脈があるわけではありませんが、キリストの一貫した教えとしてそれぞれの話を比較することで新しい学びを得ることができます。

 人をさばくことの問題点が二つ挙げられています。他人の欠点をさばくなら、そのさばきが自らの欠点をさばくことになるのが一つです(:2)。「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(マタイ26:52)もう一つは、「自分の目にある梁」(:3)です。建物の梁をかんなで仕上げると木の「ちり」が出ます。目を傷つけるちり以上の、梁のような大きな障害が自分にあることを、さばく人はしばしば認めないものです。

 人をさばくには善悪を見分ける確かな目が必要です。真珠を見分けられない豚(:6)のような目では、正しいさばきなど望むことはできません。それこそ私たちが真に求めるべきものです(:7)。「日夜叫び求める選民のために、正しいさばきを…神はすみやかにさばいてくださるであろう。」(ルカ18:7-8)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/13

2025年7月13日「神の手の内にある者」

イザヤ49:14-19
 49:14 しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。
 49:15 「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。
 49:16 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
 49:17 あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒した者は、あなたから出て行く。
 49:18 あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
 49:19 あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。

 イザヤ書は、神の都エルサレム、またの名をシオンに「よきおとずれ」(福音、イザヤ40:9)を語りかけます。しかし、神の民イスラエルは「主はわたしを忘れられた」(:14)と言い、苦難を忘れられず、失意に沈んでいます。

 福音を語りかける神は、父母の愛(:15)のように変わらぬ思いを神の民に抱き続けていると言います。神の目には、神の民は手の外側でなく内側(たなごころ)に刻まれており(:16)、他人に見せる飾りではなく、神ご自身がずっと見続けて忘れないことを告げています。

 神の民の目には現実の苦難しか見えていません。しかし、神の目には民を守る石がきが、荒廃ではなく発展が(:17)、多くの集められた人々が(:18)見えています。福音が告げる「神の救」(イザヤ49:8)は、人が想像することを超えています。「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版) 

2025/07/06

2025年7月6日「キリストにつけられた者」

ローマ6:4-11
 6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
 6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
 6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
 6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
 6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
 6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
 6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
 6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

 教会では様々な活動が行われており、礼拝の方法も教会により様々な形がありますが、その本質は一つです。

 その中でも、教会ではキリスト教式の葬儀が行われます。そして、キリスト教の葬儀は他の宗教とは決定的に異なる点があります。それは、葬儀を含むキリスト教の諸活動は、すべて神への礼拝として行われるということです。葬儀の中でも神への賛美が歌われ、祈りがささげられます。クリスチャンとなる第一歩である洗礼式(バプテスマ)も神への礼拝であり、キリストに自らの身をゆだねる儀式です。また洗礼式はキリストと共に葬られる(:4)、葬儀でもあります。

 キリストと共に葬られた者は、キリストと共に死人の中からよみがえります。クリスチャンは心に、キリストの死と復活が、分かれることなく一つとなって刻まれています。「私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになる」(:5)

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)