
イエス・キリストは、群衆に対し多くのことを譬(たとえ話)によって教えられました(マルコ4:2)。その後、キリストは弟子たちに対し、たとえ話の意味を解き明かしました(マルコ4:10)。キリストがたとえを用いて語った理由は、聞く耳のある者に神の奥義を伝えるため、聞く耳を持たない者には謎として残すためでした(マタイ13:9-13)。
しかし、キリストの話は多くの人々に権威を感じさせる力を持ち(マタイ7:29)、聞く耳を持つ者には理解を促し、興味をひきつける工夫に満ちていました(マルコ4:33)。一例として、古代オリエント世界でよく用いられた「誇張法」(当時の農業水準を超える百倍の収穫、マルコ4:8)が挙げられます。また、聞き手の生活に身近な話題を用いつつ、その中に注意を引く異常な変化を持たせました(良い麦畑に出た毒麦、マタイ13:27)。また、主な聴衆であるイスラエル人の常識である旧約聖書からの引用も多くありました。
※マタイ13:32(鳥が巣を作るほどの大木)=エゼキエル31:6(世界帝国のたとえ)
たとえ話は繰り返し語られ、異なる人々に対して語られました。聴衆によりたとえ話の強調点が変わることがあります。「ぶどう園の主人」のたとえ話(マタイ20:1-16)では、主人に雇われること、主人に選ばれること、賃金の逆転、または賃金の平等、主人の気前よさ、と複数の強調点を見出すことができます。しかし、キリストのたとえ話は物語の第二の頂点の方に、より重要な真理が秘められています(ルカ12:36-48)。
福音書に収められたキリストのたとえ話は、教会の長い歴史の中で繰り返し語られてきました。教会では多くの場合、聖書全体がキリストを指し示すものとして寓喩的に解釈されてきました。しかし、その解釈は教会による二次的な意味づけであり、キリストが最初に教えようとされた真理から外れている可能性があります。キリストは数多くのたとえ話を「天国の奥義」を教えるために語られました。キリストが語られた中心的なメッセージを見失わないようにしましょう。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)
参考資料:ヨアヒム・エレミアス「イエスの譬え」新教出版社(1969年)