2024/08/25

2024年8月25日の聖書日課

(サワギキョウ)

詩篇98篇

 98:1 新しき歌を主にむかってうたえ。
主はくすしきみわざをなされたからである。
その右の手と聖なる腕とは、
おのれのために勝利を得られた。
 98:2 主はその勝利を知らせ、
その義をもろもろの国民の前にあらわされた。
 98:3 主はそのいつくしみと、まこととを
イスラエルの家にむかって覚えられた。
地のもろもろのはては、われらの神の勝利を見た。
 98:4 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
声を放って喜び歌え、ほめうたえ。
 98:5 琴をもって主をほめうたえ。
琴と歌の声をもってほめうたえ。
 98:6 ラッパと角笛の音をもって
王なる主の前に喜ばしき声をあげよ。
 98:7 海とその中に満ちるもの、
世界とそのうちに住む者とは鳴りどよめけ。
 98:8 大水はその手を打ち、
もろもろの山は共に主のみ前に喜び歌え。
 98:9 主は地をさばくために来られるからである。
主は義をもって世界をさばき、
公平をもってもろもろの民をさばかれる。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/08/18

2024年8月18日の聖書日課

(キオン)

出エジプト34:4-9
 34:4 そこでモーセは前のような石の板二枚を、切って造り、朝早く起きて、主が彼に命じられたようにシナイ山に登った。彼はその手に石の板二枚をとった。
 34:5 ときに主は雲の中にあって下り、彼と共にそこに立って主の名を宣べられた。
 34:6 主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、
 34:7 いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。
 34:8 モーセは急ぎ地に伏して拝し、
 34:9 そして言った、「ああ主よ、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、かたくなな民ですけれども、どうか主がわたしたちのうちにあって一緒に行ってください。そしてわたしたちの悪と罪とをゆるし、わたしたちをあなたのものとしてください」。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/08/11

2024年8月11日の聖書日課

(ウバユリ)

ヨハネ7:37-44
 7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
 7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
 7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
 7:40 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
 7:41 ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
 7:42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
 7:43 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。
 7:44 彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/08/04

2024年8月4日の聖書日課

(タマアジサイ)

第一ヨハネ5:1-5
 5:1 すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。
 5:2 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
 5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。
 5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
 5:5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。

(日本聖書協会『聖書 口語訳』1955年版)

2024/08/01

主イエス・キリストのたとえ話

 

 イエス・キリストは、群衆に対し多くのことを譬(たとえ話)によって教えられました(マルコ4:2)。その後、キリストは弟子たちに対し、たとえ話の意味を解き明かしました(マルコ4:10)。キリストがたとえを用いて語った理由は、聞く耳のある者に神の奥義を伝えるため、聞く耳を持たない者には謎として残すためでした(マタイ13:9-13)。

 しかし、キリストの話は多くの人々に権威を感じさせる力を持ち(マタイ7:29)、聞く耳を持つ者には理解を促し、興味をひきつける工夫に満ちていました(マルコ4:33)。一例として、古代オリエント世界でよく用いられた「誇張法」(当時の農業水準を超える百倍の収穫、マルコ4:8)が挙げられます。また、聞き手の生活に身近な話題を用いつつ、その中に注意を引く異常な変化を持たせました(良い麦畑に出た毒麦、マタイ13:27)。また、主な聴衆であるイスラエル人の常識である旧約聖書からの引用も多くありました。
※マタイ13:32(鳥が巣を作るほどの大木)=エゼキエル31:6(世界帝国のたとえ)

 たとえ話は繰り返し語られ、異なる人々に対して語られました。聴衆によりたとえ話の強調点が変わることがあります。「ぶどう園の主人」のたとえ話(マタイ20:1-16)では、主人に雇われること、主人に選ばれること、賃金の逆転、または賃金の平等、主人の気前よさ、と複数の強調点を見出すことができます。しかし、キリストのたとえ話は物語の第二の頂点の方に、より重要な真理が秘められています(ルカ12:36-48)。

 福音書に収められたキリストのたとえ話は、教会の長い歴史の中で繰り返し語られてきました。教会では多くの場合、聖書全体がキリストを指し示すものとして寓喩的に解釈されてきました。しかし、その解釈は教会による二次的な意味づけであり、キリストが最初に教えようとされた真理から外れている可能性があります。キリストは数多くのたとえ話を「天国の奥義」を教えるために語られました。キリストが語られた中心的なメッセージを見失わないようにしましょう。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)

参考資料:ヨアヒム・エレミアス「イエスの譬え」新教出版社(1969年)